サーロー節子は何をした人?夫や子供は?ノーベル平和賞授賞式でスピーチも

人物

みなさんは、サーロー節子さんという人のお名前を聞いたことがあるでしょうか?

サーロー節子さんは平和活動家で、被爆者としての体験を通じて核兵器廃絶や平和への取り組みを行っている日本生まれのジャーナリストです。

今回はサーロー節子さんの平和活動や、夫との出会いと結婚、子供についてまとめました。
では、早速、みていきましょう。

サーロー節子は何をした人?

サーロー節子さんは、13歳の時に広島で被爆した経験を持つ平和活動家で、現在はカナダのトロント市に在住しています。

サーロー節子さんは、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)(アイキャン)」の発足当時より、同団体を代表して国連や国政会議で被爆者としての体験を伝え続けており、核兵器禁止条約の成立に大変尽力されている方です。


2017年 ノーベル平和賞授賞式でスピーチをするサーロー節子さん

2017年12月には、「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)(アイキャン)」がノーベル平和賞を受賞した際、は被爆者として初めて授賞式でスピーチをしています。

サーロー節子のプロフィール

旧姓:中村節子
生年月日:1932年(昭和7年)1月3日生まれ
年齢:92歳(2024/08/01現在)
出身地:広島県

サーロー節子の略歴

  • 1945年8月6日(当時13歳):広島市への原子爆弾投下により被爆。建物の下敷きになるが、九死に一生を得る。
  • 1954年(当時22歳):米国に留学し、リンチバーグ大学で社会学を学ぶ。
  • 1955年(当時23歳):ワシントンD.C.でカナダ出身の関西学院の英語教師と結婚。カナダ・米国・イギリス・日本などで被爆体験を語り核兵器廃絶を訴える。
  • 2017年(当時85歳):ノーベル平和賞授賞式で受賞講演を行い、ICAN事務局長とともに記念のメダルと賞状を受賞。
  • 2019年(当時87歳)トロント大学から名誉博士号を授与。

サーロー節子の結婚・夫について

サーロー節子さんの夫はジム・サーローさんといい、子どもは2人います。ここではサーロー節子さんと後に旦那さんなるジム・サーローさんとの出会いについて詳しくご紹介します。

中村節子と夫ジム・サーローの出会い

中村節子さん(当時22歳)が広島女学院大学に在学中、夏休みを利用して国際キリスト教ワークキャンプに参加した際、カナダから来た宣教師で関西学院大学で英語を教えていたジム・サーローさんと出会いました。

ジムさんは奉仕活動を通じて誠実で働き者の性格を見せ、節子さんにとって尊敬できる存在となりました。

アメリカ留学とジム・サーローとの葛藤

実はこの当時の節子さんは大学卒業後、アメリカのバージニア州リンチバーグ大学への留学が以前から決まっていました。

しかし、ジムさんは日本での赴任期間がまだ残っており、二人の関係は複雑な状況にありました。

また、節子さんのご両親は二人が親密な関係になることを快く思っておらず、また節子さんも親が反対する結婚は考えられなかったため、ジムさんと離れる決意をしました。

船旅でのジムのプロポーズ

節子さんが留学のため、名古屋からアメリカ行きの船に乗る直前、ジムさんは人目を避けるようにしてポケットからそっと指輪を取り出し、節子さんに渡しました。

この思いがけないプロポーズに節子さんは驚きましたが、留学への初心を貫く決意を固め、ジムさんとも両親とも一時的に距離を置くことにしたのでした。

結婚までの道のり

こうして、強い意思でアメリカに渡った節子さんは、平和活動に積極的に関わりながら学問に励んでいました。

一方で、ジムさんは日本での赴任期間を終え、遠距離で愛をはぐくみ続けていた2人は1955年7月に結婚することを決めました。

当時、節子さんが住んでいたバージニア州では白人と非白人の結婚が禁止されていたため、二人は人種差別法のないワシントンD.C.で式を挙げました。

トロントでの生活と出産

結婚後、節子さんとジムさんはカナダのトロント大学でそれぞれ修士号を取得しました。

1958年にジムさんが再び日本に赴任し、関西学院大で歴史学の教べんをとった際には節子さんも日本へ同行し、1959年に長男ピーター(節子さん当時27歳)、1961年に次男アンディ(節子さん当時29歳)を出産されました。


1962年にトロントに戻った後も、ジムさんは高校で歴史を教え、節子さんはソーシャルワーカーとして活動しました。

節子さんの平和運動とジムさんの支え

トロントでの生活が始まった後、節子さんは反核平和運動に本格的に取り組むようになりました。

ジムさんは節子さんの活動を支えながら、家族と共にその使命を全うしました。
彼女はカナダやアメリカの各地で講演を行い、核兵器廃絶の大切さを訴え続けました。

ジム・サーローの死とその後の節子さん

ジム・サーローさんは2011年にトロントで亡くなりました。
彼女は夫の死後も変わらず反核運動に邁進し、その熱意と信念は今も多くの人々に影響を与え続けています。

映画化にもなった節子さんの活動

サーロー節子さんの核兵器廃絶に向けた活動活動は、映画化され2021年4月に全国の劇場で公開されました。

映画のタイトルは「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」

13歳のとき、広島で被爆した自らの実体験を、世界中の多くの人々に語り伝える反核平和運動に長年従事してきた日本生まれの女性・サーロー節子の生涯を追う必見の感動作

この映画の予告編がYouTubeにアップされています。

節子さんは当時88歳くらいなのですが、ものすごくパワフルです。
何かに信念をもって生きている人がもつエネルギーを感じずにはいられませんでした。

映画の口コミをいくつか紹介します。

  • 日本人は観るべき作品ではないでしょうか。もちろん世界中の人に観てもらいたい。
  • もう後30年もしたら当時大変な思いをした方の話を聞くことは出来なくなるのかな。もっとこういう活動をして頂きたい。
  • 原爆ドームを見に行きました。1時間、無言で立ち尽くしました。その間に大勢の外国人が通り過ぎました。あの日、この場所で何が起きたか想像させられ涙だとまりせんでした。
  • 広島で生まれ育ったものとしてこういう人たちの言葉をしっかり後世に残さないとなと思う。

彼女は原爆で一瞬にして同級生を300人以上失いました。

サーロー節子さんのコメント

このドキュメンタリーを日本の多くの人に見てもらいたいと願っています。75年前、一発の原子爆弾の投下によって地獄と化した広島で生き残った13才だった私。

同じ体験を2度と誰にもさせてはならない!という熱い思いで、被爆体験と願いを声高く世界中の人たちに伝えてきました。これは、原爆によって命を落とした、私たちが愛する人達へささげた誓いです。

まとめ

サーロー節子とは?

  • 旧姓 中村節子
  • 1932年(昭和7年)1月3日生まれ 92歳(2024年現在)
  • 広島市出身
  • 現在は、カナダのトロント市に在住
  • 13歳の時に広島で被爆した自らの実体験を、世界中の多くの人々に語り伝える反核平和運動に長年従事してきた日本生まれの女性ジャーナリスト。
  • 核兵器廃絶に向けた活動を大きく貢献。
  • 2017年に、ノーベル平和賞授賞式でスピーチも。
  • カナダ人の夫ジム・サーローさん(2011年没)と結婚。
  • 子供は息子が2人。長男ピーター(現在:65歳)次男アンディ(現在:63歳)

サーロー節子さんが8月3日(土)テレビに出演

番組名
「テレメンタリー2024「92歳 私の仕事〜被爆者 サーロー節子〜」
が放送されます。


放送日
8月3日(土)朝4:50 ~5:20(テレビ朝日)
8月6日(火)午前9:55~10:25(広島ホームテレビ)

被爆者サーロー節子さん(92)。広島で中村節子として生まれた彼女は13歳のときに被爆。現在も世界各国で自身の被爆体験を語り続けているサーローさんの「過去と今」を探る。

92歳になったサーロー節子さんは、今では、外出は車いすになることが多くなったそうです。
それでも、「声を上げることをやめるわけにはいかない」という信念で活動を続けています。

彼女の生活や活動について、当日の放送で詳しく紹介されることでしょう。
当日の放送と併せてお楽しみいただけますと幸いです。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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