9月11日(水)19:00放送の「世界の何だコレ!?ミステリーSP」では、9.11同時多発テロの現場で活動した11人の日本人消防士たちが特集されます。
きっかけはニューヨークの消防士仲間からの1本のメールだった
ニューヨークの消防士からの実際のメール(YouTubeより)
テロ発生後、ワールドトレードセンターの現場は第2のテロを避けるため、外国人の立ち入りが完全に禁止されていました。
アメリカ人消防隊のみが救出活動に従事していた中で、なぜ日本人消防士だけが救助活動を行うことができたのでしょうか?その背景に迫ります。
また、9.11同時多発テロに後に誕生した「トモダチ作戦」についてもご紹介します。
9.11 同時多発テロ発生
2001年9月11日、ハイジャックされた旅客機がニューヨークのワールドトレードセンターに激突し、「アメリカ同時多発テロ事件」として世界中を震撼させました。
ビルが倒壊し、死傷者は9,000人以上、行方不明者も1,000人を超える大惨事となりました。現場では、343人の消防士が犠牲となり、厳戒態勢が敷かれました。
志澤公一さん(年齢59歳)*2024.09.11現在
(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
そんな中、日本人消防士だけが外国人として救助活動を許可されることになります。
その中心となったのが、横浜市消防局の志澤公一(しざわ こういち)さん(当時36歳)でした。
ニューヨークの消防士仲間からの緊急メール
救助活動のきっかけは、志澤公一さんに届いたニューヨークの消防士仲間、ディヴィッド・ロドリゲスさんからの「助けてくれ」という切実なメールでした。
(出典:YouTube)
志澤さんは、警察官や消防士のスポーツ大会である世界警察消防競技大会に何度も参加しており、実際、テロ発生の3か月前(2001年6月)にはインディアナポリスで行われた大会にも出場していました。
2001年6月消火競技で優勝した志澤さん率いる日本代表チーム(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
日本代表チームはアメリカと接戦の末、消火競技で優勝した際にニューヨークの消防士たちと親交を深めていました。その中でもディヴィッド・ロドリゲスさんと志澤さんは特に深い親交がありました。
ニューヨークの消防士ディヴィッド・ロドリゲスさん(出典:YouTube)
テロのニュースを受け、志澤さんはすぐにディヴィッド・ロドリゲスさんに連絡を取りましたが、電話もメールも通じず。ディヴィッドさんからようやく返信が届いたのは事件から11日後のことでした。
そしてそのメールには「助けてくれ」という文字が切実に記されていました。
志澤さんの決断と仲間たちの支援
志澤さんはすぐに渡米を決意し、消防競技大会で知り合った11人の仲間たちがボランティアとして同行することに。業務ではなくボランティアとして、各自が休みを取り、自費で現地に向かうことにしました。
出発日は2001年10月7日、帰国は10月10日。現地での滞在はわずか3泊、実質的に活動できるのは2日だけというタイトなスケジュールでした。
救助活動を求めるも、立ち入り禁止の壁
ニューヨークに到着した志澤さんたちは、まず現実の壁にぶつかりました。アメリカ政府は外国人の立ち入りを全面的に禁止しており、救助活動は許可されていなかったのです。
それでも、彼らはミッドタウンにある「エンジン16・ラダー7」(消防署)を訪れ、犠牲となった消防士たちに花束を捧げ、黙とうを捧げることができました。また、副署長に義援金を手渡すこともできましたが、この日は救助活動には至りませんでした。
そんな中、一人の消防士が彼らに声をかけてきました。その名はミッキー・クロス。彼はワールドトレードセンターでの救助活動中にビルが崩壊し、4時間後に奇跡的に救出された消防士で、現地ではヒーローとして知られています。
このミッキー・クロスさんが、翌日志澤さんたちをグラウンド・ゼロに連れて行ってくれることになりました。
「グラウンド・ゼロ」(Ground Zero)は、英語で「爆心地」を意味する言葉です。もともとは核爆弾や水素爆弾の爆心地を指す用語として使われていました。
しかし、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの際に、ニューヨークのワールドトレードセンターが倒壊した跡地が「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるようになり、この名称が広く知られるようになりました。この場所は、テロの象徴的な現場として、多くの人々にとって特別な意味を持っています。
現在、グラウンド・ゼロには9.11記念碑・博物館が建てられており、犠牲者を追悼する場所として多くの人々が訪れています。
救助活動の実現
志澤さんは子供のころから「消防士になりたい」という夢を抱き、19歳でその夢を実現しました。
ところが、さまざまな修羅場を経験してきた彼でも、ニューヨークの崩壊現場の惨状は想像を絶していました。仲間たちはその場に立ちつくし、犠牲となった消防士たちの冥福を祈りました。
ミッキー・クロスさんのおかげでグラウンド・ゼロの入口にはたどり着いたものの、許可されたのは現場への立ち入りだけで、作業には許可証が必要でした。
救助活動を行うための交渉は難航し、この日も作業には至りませんでした。
最後の挑戦
そして、ついに最終日を迎えました。志澤さんたちは救助活動の許可を得るため、諦めることなく交渉を続けました。
その過程で、アメリカの災害対応のルールにより現場に牧師を同行させることが鍵となりました。そこで、一人の牧師が現れました。
彼は元消防士で、現場責任者の上司だったのです。この牧師が責任を持つと申し出てくれたことで、ついに救助活動が許可されました。
なぜ牧師が被災現場に配置されるのかというと、その理由は精神的支援にあります。
牧師は救助活動に従事する消防士や警察官、そして被災者に対して精神的な支援を提供し、祈りやカウンセリングを通じて心の安定を図る役割を担っています。
6時間の限られた救助活動
日本人消防士11名に許可された救助活動は、次の責任者に交代するまでのわずか6時間という短いものでした。しかし、その限られた時間の中で、彼らは全力を尽くして瓦礫の中で捜索活動を行いました。
残念ながら遺体を発見することはできませんでしたが、彼らの献身的な努力は現地の消防士たちから大きな拍手で称賛されました。感謝の証として、ワールドトレードセンターの鉄骨から作られた十字架が手渡されました。
救助活動に参加した11人の消防士(名簿)
以下は、救助活動に参加した11名の消防士とその所属先です(あいうえお順)。
- 大江 道就(おおえみちなり) 横浜市消防局
- 小濱 直之(こはまなおゆき) 大阪市消防局
- 小玉 敦司(こだまあつし) 川崎市消防局
- 斎藤 禎史(さいとうよしふみ)横浜市消防局
- 志澤 公一(しざわこういち) 横浜市消防局
- 武藤 勝行(むとうかつゆき) 堺市消防局
- 濱 弘一(はまこういち) 東京消防庁
- 牧野 暁(まきのさとる) 横浜市消防局
- 水野 晴夫(みずのはるお) 名古屋市消防局
- 山東 雅克(さんとうまさかつ)大阪市消防局
- 山本 大介(やまもとだいすけ)川口市消防局
まとめ
なぜ日本人消防士だけが立ち入り禁止の9.11同時多発テロの現場で、唯一の外国人として救助活動を許可されたのか?
志澤公一さんと日本の消防士たちの努力
志澤公一さんをはじめとする日本の消防士たちは、ニューヨークの消防士たちと長年交流を重ね、訓練を通じて強い信頼関係を築いていました。この信頼が、9.11の現場で彼らが特別に認められる要因となりました。
ニューヨークの消防士仲間
救助活動のきっかけは、ニューヨークの消防士仲間であるディヴィッド・ロドリゲスさんから届いた緊急メールでした。彼の「助けてくれ」という切実な呼びかけに応え、志澤公一さんを含む日本の消防士たちは自費でボランティアとして現地に向かいました。
左:志澤公一さん
右:ニューヨークの消防士ディヴィッド・ロドリゲスさん(出典:YouTube)
現地での出会いと支援
現地では、ヒーローとして知られる消防士ミッキー・クロスさんが日本の消防士チームをサポートしました。ミッキーさんはビル崩壊の現場で奇跡的に生還した人物で、志澤さんたちをグラウンド・ゼロに連れていくという重要な役割を果たしました。
さらに、活動許可に大きく影響したのは、現場責任者の上司であった牧師との出会いです。元消防士でもある牧師が、日本の消防士たちの救助活動を認め、その結果、短い時間ながらも現場での救助活動が実現しました。
トモダチ作戦とは?
9.11の悲劇から10年後の2011年3月11日、日本を襲った東日本大震災。発生からわずか3日後、アメリカは9.11での恩返しをするかのように、約2万人もの救援チームを日本に送り込みました。
(出典:ニッポン放送NEWS ONLINE)
この作戦は「トモダチ作戦」と呼ばれ、震災発生後すぐに始まりました。約2万4,000人のアメリカ軍人が被災地での捜索救難や災害救助、人道援助に参加しました。
9.11のときに日本の消防士たちがニューヨークに駆けつけたことへの感謝の気持ちが、この「トモダチ作戦」誕生の背景にあったのです。
志澤公一さんのその後の活動
9.11同時多発テロの現場での救助活動後、志澤公一さんはどのような活動をしてきたのでしょうか?以下に、その後の彼の活動をいくつか紹介します。
(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
2016年4月14日 熊本地震
2016年4月14日に発生した熊本地震では、志澤公一さんは横浜市消防局に勤務しながら、NGO日本警察消防スポーツ連盟事務局長としても活躍していました。
(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
この時、彼は災害救助復旧支援隊として、倒壊した家屋に埋もれた被災者たちの大切な思い出の品々を見つけ出すボランティア活動に参加しました。
もちろんこの時も旅費もすべて自腹での活動です。アルバムや手紙、孫から祖母への初任給のお小遣いが入った封筒など、崩壊した家屋の中に入り込み、心のこもった捜索を行いました。
2019年9月9日 令和元年台風15号被害 千葉県
2019年9月9日、千葉県では最大瞬間風速57.5m/sを記録した台風15号が関東地方に甚大な被害をもたらしました。
(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
志澤さんは被害に遭った住宅の屋根の補修を行い、強風で倒れた木が家を直撃した家ではチェーンソーを使って木を切り出す作業もしました。
(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
大雨のためボランティア活動が全面中止となる中、志澤さんと日本警察消防スポーツ連盟のボランティアチームは、屋根にブルーシートを敷いたり、雨で濡れた畳を取り外したりと、一般の人には難しい作業を次々とこなしました。また、災害ごみ置き場まで濡れて使えなくなった畳や倒木を運びました。
2024年1月1日 能登半島地震 石川県
2024年1月1日には、能登半島でマグニチュード7.5の大規模な地震が発生しました。この地震により、石川県志賀町の浄法寺の本堂と釣鐘堂が全壊しました。
鐘の救出作戦(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
宗教法人の施設は公費での解体対象外となるため、震災から120日以上経過しても釣鐘堂の撤去作業は手つかずの状態でした。
無事、鐘を救出し、自ら鐘を鳴らす志澤さん(出典:NGOセーフティー・フューチャー)
志澤さんは、この全壊した釣鐘堂の撤去作業と倒れた鐘を再び台座に戻す「救出作戦」に参加しました。「里山に再び鐘の音を響かせ、復興に頑張る人たちを支えたい」という想いから、彼はこの活動に力を注ぎました。
9.11は終わっていない
合衆国消防局によると、9.11のテロ発生後、アクティブメンバーのほぼ全員が現場に駆けつけ、救助活動や復興作業に従事しました。
343人の消防隊員が命を落とし、10ヵ月にわたり1万6000人が倒壊跡地で作業を行いました。
彼らは粉塵や有毒ガス、化学物質にさらされながらも、命をかけた救助活動を続けました。
健康被害とその後
この過酷な環境が原因で、2021年には1万1300人に健康被害が確認されました。
具体的には、胃食道逆流症や癌、さらに鬱やPTSDといった精神的な問題も報告されています。こうした健康問題は、9.11の影響が長期にわたって続いている証拠です。
DNA鑑定と未解決の遺族への配慮
倒壊跡地から発見された2万2000以上の遺体の一部はDNA鑑定が進められていますが、まだ40%にあたる1106人の遺体とDNAが照合できていません。
遺族の意向を尊重しながら、20年が経過した今も地道に鑑定作業は続けられています。
現在も続くDNA鑑定や健康被害の影響を見ると、23年経った今でも9.11の影響は色濃く残っています。過去の悲劇がもたらした影響は、今もなお多くの人々の生活に影を落とし続けています。
(出典:YouTube)
今回は、なぜ日本人消防士だけが立ち入り禁止の9.11同時多発テロの現場で救助活動を許可されたのか、その理由についてお伝えいたしました。
9月11日(水)19:00「世界の何だコレ!?ミステリーSP」の放送と併せてお楽しみいただけますと幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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