【全女・松永兄弟】生まれた年や死因を画像付きで解説!なぜ崩壊?全日本女子プロレス(極悪女王)

極悪女王

Netflixの「極悪女王」が大ヒット中ですね。ダンプ松本役のゆりやんレトリィバア、長与千種役の唐田えりか、そしてライオネス飛鳥役の剛力彩芽の演技は、演技を超えて本物のプロレスラーのような迫力すら感じます。

そんな中、全日本女子プロレスの経営者である松永兄弟の存在感も無視できません。

左:四男の松永国松 副社長
中:三男の松永高司 社長
右:五男の松永俊国 専務
*役職は劇中のもの
(出典:vogue)

劇中には三男の松永高司(村上淳)、四男の松永国松(黒田大輔)、五男の松永俊国(斎藤工)が登場しますが、名前が似ているため、誰が誰で、年齢の順番が分からなくなってしまうこともあります。

そこで、松永兄弟の生年や亡くなった年月日・死因などを整理し、わかりやすくまとめました。

さらに、松永兄弟と言えばその豪遊ぶりが有名ですが、1980年代に全盛を誇った全日本女子プロレスがなぜ崩壊し、倒産に至ったのか、その過程についても深掘りしています。ぜひ最後までご覧ください。

全女・松永兄弟について

全日本女子プロレスを創設し、女子プロレスの発展に大きく貢献した松永兄弟。「極悪女王」の劇中では3兄弟が登場していますが、実際には5人兄弟です。

劇中に出てくるのは三男の松永高司、四男の松永国松、五男の松永俊国です。長男は経営に関わっておらず、名前は不明です。また、次男の松永健司さんもいますが、劇中には登場しません。

次男:松永健司

  • 役職
    副会長、「ミスター郭」のリングネームでレフェリーも担当。

  • 生年月日
    1936年(正確な日付は不明)

  • 没年
    2020年2月6日、肺炎で亡くなる(享年84歳)
ライリー
ライリー

次男の松永健司さんは副会長だけど、「極悪女王」には出ていないよね。

モーリー
モーリー

白石和彌監督によると、本当は松永4兄弟全員を登場させたかったそうだけど、時間の都合で3人兄弟だけにしたんだって。

晩年の松永兄弟の次男(ご本人)
元副会長:松永健司さん。2020年2月6日に亡くなりました。
(出典:北斗晶公式ブログ)

三男:松永高司(演:村上淳)

三男の松永高司(演:村上淳)劇中では、焼きそばを作って売ってしましたね。「結局は好きなように生きたヤツが勝ちなんだよ。こうと思った道に自信を持って進めばいいよ」は名言です(出典:oricon)

  • 役職
    全日本女子プロレスの創設者、社長・会長を歴任。「女子プロレスの父」と称される。

  • 生年月日
    1936年6月6日

  • 没年
    2009年7月11日、間質性肺炎で亡くなる(享年73歳)

三男の松永高司さん(ご本人)
(画像:週刊プロレス)

四男:松永国松(演:黒田大輔)

四男の松永国松(演:黒田大輔)
(出典:oricon)

  • 役職
    副社長。解散時の社長、「ジミー加山」のリングネームでレフェリーも務める。

  • 生年月日
    1942年(正確な日付は不明)

  • 没年
    2005年8月17日、東京都品川区内のビルから飛び降り自殺(享年63歳)

レフリー・ジミー加山としての四男:松永国松さん(本人))(出典:YouTube)

五男:松永俊国(演:斎藤工)

五男の松永俊国(演:斎藤工)。劇中で3兄弟の中で一番血気盛んな役どころですね(出典:oricon)

  • 役職
    専務のちに社長も

  • 生年月日
    1945年(正確な日付は不明)

  • 没年
    2002年9月2日、心不全で亡くなる(享年57歳)

亡くなったのは年下から

兄弟の中で最初に旅立ったのは、最も年下の松永俊国さんでした。

亡くなった日付名前没年齢
2002年9月2日五男:松永俊国享年57歳
2005年8月17日四男:松永国松享年63歳
2009年7月11日三男:松永高司享年73歳
2020年2月6日次男:松永健司享年84歳
ライリー
ライリー

一番年下の五男:松永俊国さんが最初に亡くなったんだね

モーリー
モーリー

そして一番長生きした人は次男の松永健司さんなのね

全日本女子プロレスの栄光と崩壊

全日本女子プロレスの解散に至る経緯は、松永家の経営上の失敗が大きな要因でした。以下にその詳細を解説していきます。

全盛期の全日本女子プロレス (1980年代~1990年代初頭)

1980年代から1990年代初頭にかけて、全日本女子プロレスは黄金期を迎えました。この時期には、クラッシュ・ギャルズ(長与千種とライオネス飛鳥)をはじめ、ダンプ松本やブル中野といったスター選手が次々に登場。

彼女たちの人気は絶大で、女子プロレスは一大ブームとなり、試合はテレビ中継されるまでの盛り上がりを見せました。

特にクラッシュ・ギャルズは、その魅力的なキャラクターと実力で、まるでアイドルのように絶大な人気を誇り、ファンの心を掴んで離しませんでした。

女子プロレスは、まさにこの時期に社会現象とも言える成功を収め、多くの観客を集め続けました。

全日本女子プロレスの崩壊への道

しかし、そんな栄光の舞台から一転、2005年に全日本女子プロレスは解散することになります。その背後には松永家の経営上の失敗が大きな要因として存在していました。

松永家はプロレス興行以外にもさまざまな事業に手を出しましたが、ほとんどが失敗に終わりました。さらに、豪華な生活や無駄な支出が重なり、経営は徐々に厳しい状況に陥りました。

また、バブル崩壊後の不動産市場の低迷により、不動産投資でも大きな損失を被りました。加えて、株式投資の失敗もあり、団体の経営資金はさらに圧迫される結果となりました。

経営破綻へのプロセス

こうした失敗が重なり、1996年頃から選手やスタッフに対する給料の未払いが発生するようになりました。

この事態を受け、団体を離れる選手やスタッフが増加。特に1997年には、大勢の選手が一斉に退団し、全日本女子プロレスの崩壊が目に見える形となりました。

1997年10月には、銀行取引停止処分を受け、経営状況はさらに厳しくなります。これにより、団体は大きな打撃を受け、その後も状況は好転せず、2002年には地上波での放送が打ち切られるまでに追い込まれました。

銀行取引停止処分:事実上の倒産発表(1997年)

1997年10月21日、全日本女子プロレスは事実上の倒産を発表しました。会見には松永高司会長(三男)らが出席し、2度目の不渡りにより銀行取引が停止されたことを報告しました。

それでも松永会長は興行の継続を宣言し、「私たちからプロレスをとったら何も残らない。現金決済で乗り切る」と語りました。しかし、1997年11月に予定されていた両国国技館と神戸ワールド記念ホールでの大会は中止となり、団体は1998年の30周年を前に厳しい状況に追い込まれました。

山口県小野田市民館体育ホール使用料滞納とは?

2003年9月11日の小野田大会で、全日本女子プロレスは会場使用料の滞納問題に直面しました。原因は、プロモーターがチケット代金を持ち逃げしたことでした。

当日、プロモーターは姿を見せず、前売りチケット1100枚の返金も行われませんでしたが、ファンの期待に応えるため、興行は予定通り開催されました。大会の観客数は予想を大幅に下回り、収益は約30万円にとどまりました。

ライリー
ライリー

観客数約800人の見込みが実際は約200人しか入らなかったんだって

全日本女子プロレスは、会場費は後日振込みをするよう小野田市に無理を言って交渉したのですが、最終的には支払いができない状態に陥りました。その結果、小野田市は約32万5000円の使用料を求め、2004年12月に訴訟を決定しました。

モーリー
モーリー

市民館体育ホールの使用料約35万5000円のうち、毎月1万円ずつ分割で返済したけど、3回分の3万円だけで返済はストップ。そのため残金の支払いを求めての訴訟だったのね

松永高司会長は約30億円の負債を抱え、選手へのギャラも支払えない状況を説明。「今後、スター選手が現れれば収益も上がる」と苦しい状況を訴え、支払いの猶予を求めていました。

埼玉県秩父・リングスター・フィールドの失敗

1988年8月1日、埼玉県秩父市に全日本女子プロレスの「リングスター・フィールド」が開設され、4000万円をかけてプールが完成しました。

全女崩壊の要因のひとつとなった「リングスター・フィールド」(画像:週刊プロレス)

プールは10×8メートル、深さ1.2メートルで、完成記念イベントではミニ・コンサートや選手とファンの交流イベントが行われ、13選手による水上プロレスも盛況でした。

大盛況だった水上プロレス(画像:週刊プロレス)

しかし、立地が山奥でアクセスが悪かったため、イベントや特訓以外の利用はほとんどなく、経営難を招く一因となりました。

2005年3月29日に全日本女子プロレスが主催興行を停止した後は、リングスター・フィールドは倉庫として使われるだけとなりました。

ライリー
ライリー

リングスター・フィールド車で通るのが難しいほどの狭い山道の奥に建てられたんだ

完成記念イベントではミニ・コンサート、ライオネス飛鳥のバースデーパーティーも。(画像:週刊プロレス)

2023年2月時点では、施設跡はまだ現存してはいるものの、コテージは半壊、プールにはオタマジャクシが棲息しているそうです。

廃墟と化したリングスター・フィールド(出典:blackeye)

全日本女子プロレス、最後の幕引き (2005年)

全日本女子プロレスは、2005年3月29日に神奈川県横浜市の金沢産業振興センター体育館で行われた大会を最後に主催興行を停止しました。

この大会前の記者会見では、松永高司会長(三男)の勇退が発表され、4月17日の後楽園ホール大会をもって現場を退くことが告げられました。

2005年3月29日、横浜市での試合前の経験で勇退を発表する松永高司会長。
(画像:週刊プロレス)

最後の大会となった4月17日後楽園ホール大会では、体調不良のため松永高司会長が欠席する中、解散の責任を取ろうと土下座しようとした松永健司副会長(次男)と国松社長(四男)が、全女メンバーたちに涙ながらに制止されるという場面も見られました。

全日本女子プロレス(全女)は、1968年に設立され、2005年に活動を停止するまで約37年間続きました。そして、最後の試合となったこの後楽園ホール大会をもって、長きにわたる女子プロレスの歴史に幕が下ろされました。

まとめ

今回は、Netflix配信の「極悪女王」に登場する松永兄弟に焦点を当てました。

劇中で描かれる松永3兄弟について、誰がどの人物かを整理しやすいように、画像とともに生年や没年も紹介しました。

三男:松永高司(村上淳)

三男の松永高司 社長(出典:Netflix X)

生年月日: 1936年
没年: 2009年7月11日(享年73歳)
役職: 社長(劇中)

四男:松永国松(黒田大輔)

四男の松永国松 副社長(出典:Netflix X)

生年月日: 1942年
没年: 2005年8月17日(享年63歳)
役職: 副社長(劇中)

五男:松永俊国(斎藤工)

五男の松永俊国 専務(出典:Netflix X)

生年月日: 1945年
没年: 2002年9月2日(享年57歳)
役職: 専務(劇中)

全日本女子プロレスはなぜ崩壊したのか?

全日本女子プロレスは1968年に設立され、ビューティ・ペアやクラッシュ・ギャルズといった人気タッグチームが女子プロレスブームを巻き起こしました。年間300試合以上の興行を行い、地方や野外でも盛況を博していました。

しかし、1990年代に入ると経営陣の浪費や不動産投資の失敗が相次ぎ、経営は悪化。給料未払いの問題が浮上し、多くの選手が退団しました。1997年に経営破綻が明らかになり、2005年に最後の興行を行い、解散しました。

Netflix「極悪女王」と併せて、当時の全日本女子プロレスの背景をお楽しみいただければ幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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