美人レスラー・ブル中野!若い頃の全盛期は?アジャコングとの金網デスマッチも!

極悪女王
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ブル中野さんといえば、1980年代から1990年代にかけて女子プロレス界を席巻した伝説のレスラーですね。

特にヒール(悪役)として知られ、青い髪のモヒカンと迫力満点のヌンチャク技は、一度見たら忘れられないインパクトがありますよね!

Netflixのドラマ『極悪女王』では、ダンプ松本さんに髪を半分バリカンで剃られるシーンに衝撃を受けた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

1985年2月、ダンプ松本さんに強制的に半刈りにされた頃のブル中野さん(中野恵子)。当時はまだ17歳でした。(出典:東スポWEB)

今回は、そんなブル中野さんの若い頃のデビューから全盛期までを振り返り、彼女がいかに強く、唯一無二のレスラーであったかを解説します。

ダンプ松本さんと、現在のブル中野さん、美人ですね!(出典:ブル中野Instagram)

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ブル中野のプロフィール

90年代のブル中野さん、めちゃくちゃ美人です(出典:スポニチ)

本名青木 恵子(旧姓:中野)
あおき けいこ
生年月日1968年1月8日
年齢56歳(2024年10月現在)
出身地東京都
身長170cm
体重現役時は115kg
現在は55.4kg(2020年10月時点)
血液型B型
ニックネーム女帝、ブル様、ブルちゃん、パンダちゃん

結婚式のときも顔に現役時代を彷彿させるメイク。やっぱり美人ですよね!

ブル中野さんは2010年2月14日に、15歳年下のキックボクサーでムエタイ選手の青木大輔さんと結婚しました。結婚当時、ブル中野さんは42歳でした。

ブル中野の経歴

入門はなんと中学1年生 

ブル中野さんは、小学校5年生のときにアントニオ猪木さんの試合をテレビで観て感動し、プロレスファンになりました。

デビュー当時のブル中野(中野恵子)と長与千種

その後、1980年に全日本女子プロレスのオーディションに合格し、中学1年生の時に練習生として入門。中学校の長期休みには早くも試合に参戦しました。

ライリー
ライリー

中学1年生で全女の練習生なるなんて将来有望だったんだね

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中学卒業後、正式入門とデビュー

しかし、プロテストには二度不合格となり、1983年に中学卒業時に三度目の挑戦で正式に入門を果たします。

15歳で迎えたデビューは、1983年9月23日。本名の中野恵子として、当初は「歌って踊れるアイドルレスラー」を目指していました。

デビュー当時のブル中野(当時は本名の中野恵子(出典:ebay)

ライリー
ライリー

すごくかわいい!

入門後、全員にジャージが支給され、赤はベビーフェイス(善玉)、紺はヒール(悪役)を示すことが知らされました。彼女が16歳のとき、唯一紺のジャージを渡され、「悪役になるのはイヤだ」と感じていたようです。

モーリー
モーリー

こんなにかわいらしい女の子が「極悪同盟」の悪役になるなんて信じられないわ!

ヒール転向と「極悪同盟」加入

ブル中野さんが16歳でヒールに転向し、「極悪同盟」に加入したことは、彼女のレスラーとしてのキャリアにおいて大きな転機となりました。

左:ブル中野
右:ダンプ松本

ダンプ松本さんが率いる極悪同盟で、彼女は悪役としての役割を強いられ、1985年には17歳でリングネームを「ブル中野」に改名ヌンチャクを駆使した独自のスタイルで一躍注目を集めるようになります。

ブル様と言えば「ヌンチャク」ですね

しかし、ブル中野さんはヒールになりたいわけではなかったのです。

心のどこかで「本当は悪い人ではない」というとアピールしたい気持ちがあったブル中野さんでしたが、それを見透かしたダンプ松本さんは、彼女の覚悟を試すために、その場でバリカンを使って髪を半分剃るという過激な手段に出ました。

ブル中野さんは、このころは悪役になりきれていなかったため、ダンプさんに『お前、まだかわい子ぶってるから、ハゲにしろ!』と言われ、その場でバリカンで頭を半分剃られてしまったのでした。

ダンプさんは『ここでチャンスを掴めなかったら、一生チャンスは巡ってこない。だから、悪い奴として徹底的にやれ』と教えてくれた。

ダンプさんに半ハゲに刈り上げられたあの日、『悪役として生きる覚悟』を決めた。

ブル中野の病気は
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悪役としての徹底した取り組み

ブル中野さんは、悪役としての徹底したキャラクター作りを行い、周囲に話しかけられないオーラを出すことを意識していました。

極悪同盟の掟には「笑わない」「サインしない」「笑顔を見せない」といった厳しいルールがあり、ブル中野さんもそれを忠実に守っていました。

たれ目がチャームポイントで、入門当時ついたあだなは「パンダちゃん」。そのたれ目をメイクでカバーし、できるだけ怖く見せようとしていたそうです。

特にメイクに関しては、当初は自信がなく、ダンプ松本さんや他の先輩に手伝ってもらいながら恐ろしいメイクを完成させていきました。

カラフルな化粧品が不足していたため、時には油性ペンを使って顔を彩ることもあり、そのメイクは落としにくいものでしたが、繰り返し使用することでだんだん毛穴が開いて色が入ってきて、そこをなぞることでまったく同じメイクが仕上がりました。

また、悪役らしさをさらに追求するため、体重を60キロから最大115キロまで増量しました。ブルさんは、試合、練習、そして食事を繰り返す生活を送り、食べ続けることで体を大きくしていきました。

ライリー
ライリー

どうしても92キロが体重が増えなくて、ブルさんはステロイドや男性ホルモンを打って100キロを超えることができたんだって

モーリー
モーリー

ステロイドや男性ホルモンの副作用でヒゲが生えて生理が止まり、すね毛生えてきたそうよ

凄みの中に美しさが溢れています。髪型は当時好きだったロックバンドBUCK-TICK(バクチク)の真似をしたのだそうです。

その努力の結果、ブル中野さんは1990年1月4日、後楽園ホールで行われたWWWA世界シングル王座決定トーナメントで西脇充子を破り、第37代WWWA世界シングル王者に輝きました。

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ブル中野とアジャコングの金網デスマッチ

ブル中野さんとアジャコングさんの金網デスマッチは、女子プロレス史における名勝負として今なお語り継がれています。

1990年11月14日に神奈川県横浜文化体育館で行われたこの試合は、その激しさと壮絶さでファンに衝撃を与えました。

この試合は、ブル中野さんとアジャコングさんの抗争がピークに達した結果、行われたものであり、ノーレフェリー、凶器持ち込み自由という過酷なルールで行われました。

金網デスマッチの背景

この11月14日のブル中野さんとアジャコングさんの対決は、1990年9月1日に大宮スケートセンターで行われた金網デスマッチにさかのぼります

この試合ではレフェリーとして起用されたブルドッグKTがアジャコングに加担します。その結果、アジャコングさんが勝利し、敗れたブルには同情的な声援が集中しました。

ブル中野さんは、後輩のアジャコングに敗れたことで再戦を希望し、それで1990年11月14日の金網リターンマッチ・再戦が実現したのでした。

当時、ブル中野さんは自らが率いる「獄門党」のリーダーとして、女子プロレスの悪役レスラーの頂点に立っていました。一方、アジャコングさんはその獄門党から独立し、新たな勢力を築こうとしており、この点も二人の闘志を燃やす要因となっていました。

獄門党とは?

ダンプ松本さんが一時引退した後に、ブル中野さんが1988年に創設しました。リーダーはブル中野さんで初期のメンバーには、グリズリー岩本、アジャ・コング、バイソン木村がいました。

獄門党はCDも発売しています。「鉄と鎖のレクイエム
左から、井上京子、ブル中野、バット吉永。振り付けはTRF。(出典:aucfree)

過酷な試合内容

ブル中野の延髄斬りが決まった瞬間(出典:東スポWEB)

1990年11月14日の横浜での再戦は、女子プロレス界でも極めて異例の試合形式でした。レフェリーがいないため、ルール無用の完全決着戦となり、ブル中野さんはヌンチャク、アジャコングさんは竹やロープ、さらにはハサミを使って激しい攻防を繰り広げました。

「リングに上がったら女を捨てているんだ。女子プロを甘く見るなよ」

試合のハイライトは、115kgのブル中野さんが金網の最上段、4メートルの高さからギロチン・ドロップを決めて勝利した瞬間です。

高さ4メートルの金網上からのギロチンドロップ。この後、レントゲンを撮ったらブル中野さんは背骨が欠けていたそうです。(出典:週刊プロレス)

彼女は後にこの試合を振り返り「背骨が突き抜けて死ぬかもしれない」と覚悟を決めて飛び込んだと語っています。その結果、アジャコングさんをKOし、ブル中野さんが勝利を収めました。

金網デスマッチの影響

この試合は、ブル中野さんとアジャコングさんの抗争をさらに深め、女子プロレス界において悪役同士がメインイベントで試合を行うという新たな流れを作り出しました。

ブル中野さんは、自身の悪役としての立場を確立するだけでなく「悪役を試合のメインにできる」ということを証明し、女子プロレスの歴史に新たな1ページを刻むことになりました。

さらに、2021年にはブル中野さんのYouTubeチャンネル『ぶるちゃんねる』にアジャコングさんが出演し、当時の試合を振り返り、「負けるとわかっていたが、中野さんを受け止めるために死んでもいいと思った」と語っています。

この発言からも、彼女たちの試合がどれほど過酷で、プロレスに対する覚悟が深かったかがうかがえます。

後に、ブル中野さんとアジャコングさんは深い絆で結ばれます(出典:reddit)

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ブル中野の国際的な成功

ブル中野さんは、金網デスマッチの後、メキシコに進出し、1992年6月12日にメキシコシティで行われたCMLL世界女子王座決定トーナメントで優勝し、初代CMLL世界女子王者となりました。この成功により、彼女の国際的な評価はさらに高まりました。

その後、ブル中野さんはアメリカにも進出し、WWF(現WWE)に参戦します。次はアメリカでの成功を見てみましょう。

アメリカ進出とWWFでの成功

ブル中野さんは、日本国内での成功を収めた後、さらなる挑戦を求めて1990年代初頭にアメリカへ進出しました。WWFに参戦すると、瞬く間にその強力な存在感を示しました。

アランドラ・ブレイズ選手(出典:YouTube)

特にアランドラ・ブレイズ(Alundra Blayze)との抗争は、アメリカ女子プロレス界に新たな刺激を与え、ブル中野さんの名前を一躍世界に広めるきっかけとなりました。

WWF参戦とアランドラ・ブレイズとの抗争

ブル中野さんがWWFに登場した当時、アメリカ女子プロレス界ではアランドラ・ブレイズが中心的な存在として君臨していました。

(出典:YouTube)

1994年、ブル中野さんとアランドラ・ブレイズの抗争は頂点に達し、11月20日に東京ドームで開催された試合でWWF女子王座を獲得します。

試合後のインタビューでこんなにもかわいい笑顔をみせるブル中野さん(出典:YouTube)

この勝利は、日本人女子レスラーとして初めてWWF女子王座を手にするという歴史的な瞬間でした。ブル中野さんは、WWFという世界最大のプロレス団体でその存在感を存分に発揮し、日本人レスラーの快挙を成し遂げました。

ブル中野さんはこの功績が認められ、2024年にWWE殿堂入りを果たしています。

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引退とその後

ブル中野さんは1997年に左膝靭帯を2本断裂する大ケガを負い、その結果、引退を余儀なくされました。現役引退後、アメリカでプロゴルファーに挑戦した後、日本に帰国。東京都中野区に「中野のぶるちゃん」という飲食店をオープンしました。

また、YouTubeチャンネル「ぶるちゃんねる」を開設し、大きな人気を集めています。登録者数は10万人を超え、特に多くのレスラーとの対談動画が人気を博しています。

まとめ

「本当はベビーフェイスに入りたかった」「歌って踊れるアイドルレスラーになりたかった」
その心の葛藤を思うと、17歳だった当時の彼女を抱きしめてあげたくなります。

プロレスキャリアのスタート
1983年に全日本女子プロレスにでデビュー、プロレスラーとしての道を歩み始めました。
当初は「歌って踊れるアイドルレスラー」を目指していましたが、16歳でヒール(悪役)に転向し、ダンプ松本さんと共に「極悪同盟」に加入。

ブル中野としてのブレイク
1985年にリングネームを「ブル中野」に改名し、ヌンチャクを使った独特な試合スタイルで注目を集めました。
1990年にはWWWA世界シングル王座を獲得し、全日本女子プロレスのトップレスラーとして活躍しました。

左:ブル中野さん
右:「極悪女王」ブル中野を演じた、堀桃子さん。堀桃子さんもまた、本当に頭を半ハゲに。(出典:ダンプ松本Instagram)

ブル中野役・桃子のプロフィール

世界進出
1992年6月12日にメキシコシティで行われたCMLL世界女子王座決定トーナメントで優勝し、初代CMLL世界女子王者を獲得。

WWF(現WWE)での成功
1990年代初頭にアメリカのWWFに参戦し、1994年にはアランドラ・ブレイズ(Alundra Blayze)を破り、WWF女子王座を獲得。
この功績により、ブル中野さんは日本人女子レスラーとしての地位を確立し、2024年にはWWE殿堂入りを果たしました。

引退後の活動
1997年にプロレスラーを引退した後、プロゴルファーを目指し、2000年に渡米。その後帰国し、飲食店「中野のぶるちゃん」を経営し、現在は自身のチャンネル「ブル中野のぶるちゃんねる」でYouTuberとしても活躍しています。

長与千種さんと2024年9月22日にトークショーを開催(出典:ブル中野Instagram)

今回は、ブル中野さんの若い頃の全盛期に注目し、彼女の強さや影響力について解説しました。

ただいま大ヒット中のNetflixドラマ「極悪女王」のご視聴と併せてお楽しみいただけたら幸いです。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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