伍代夏子さんが実はこれまでに4回も改名を経験していることをご存じでしょうか?「なぜ何度も名前を変えたの?」と疑問に思う方も多いはず。また、彼女の本名は一体何なのかも気になりますよね。
この記事では、伍代夏子さんの本名や、これまでの芸名の数、そしてその4回にわたる改名の理由について、わかりやすく解説します!
伍代夏子の本名は?
現在62歳の演歌歌手・伍代夏子さんの本名は山田輝美(やまだ てるみ)さんです。
この「山田」という名字は、夫で俳優の杉良太郎さん(80歳)の本名の姓でもあります。杉良太郎さんの本名は山田勝啓(やまだ かつひろ)。結婚を機に、彼女もこの名字を名乗るようになりました。
実は、彼女はデビュー当初から何度も芸名を変えた背景には、芸能界ならではの苦労と工夫がありました。
デビュー時の芸名:星ひろみ
アイドル路線のスタート
伍代夏子さんが最初に使った芸名は「星ひろみ」。1982年、センチュリーレコードから「恋の家なき子」でデビューしました。
この年は、アイドル歌手が次々とデビューし、「花の82年組」と呼ばれるほど多くの才能が登場した年でもあります。
松田聖子の大ヒットに続き、中森明菜、小泉今日子、松本伊代、早見優、堀ちえみ、石川秀美、シブがき隊など、数多くのアイドルが登場し、音楽シーンを席巻しました。
21歳でデビューした「恋の家なき子」(出典:kikimimi
現在の伍代夏子さんのイメージとは全然ちがう!
どちらかと言うとツッパリ系のアイドル歌手を目指していたのかしら?
そんな中、伍代夏子さんも「星ひろみ」としてアイドル歌手としてデビューを果たします。彼女にとって、アイドル路線は華やかなスタートを切るための重要な一歩でした。
しかし、現実は予想以上に厳しく、夢見ていた華やかな世界とは裏腹に、思うような結果を得ることはできませんでした。
営業活動と過酷な現実
デビューからしばらくは、営業活動が中心となり、特にスナック回りの仕事が大部分を占めていました。スナックで歌うこと自体は珍しいことではないのですが、そこで伍代夏子さんが直面したのは、酔った客からのセクハラや無理難題。
アイドル歌手としての華やかな舞台を期待していた彼女にとって、その現実は非常に過酷で精神的にも辛いものでした。
精神的なプレッシャー
アイドル歌手としての活動を続ける中で、次第に彼女の精神的な負担は大きくなっていきました。営業活動が続く中で、セクハラを受けることも多く、次第に人前で歌うことが苦痛になっていきました。心身ともに疲れ果てた結果、ストレスが原因で円形脱毛症を発症してしまったのです。
体調の変化と苦悩
伍代夏子さん自身も、当時は「体調が悪くて歌うのが辛かった」と語っており、精神的なプレッシャーと体調の不調が重なり、歌手としての活動に対する不安や焦りが募っていったと言います。しかし、そんな状況でも彼女は前に進み続けました。その背後には、歌手としての夢を諦めたくないという強い意志がありました。
事務所倒産とその後の転機
1982年のデビューからわずか4ヶ月後、伍代夏子さんが所属していた事務所が突然倒産します。ある日、ピアノレッスンのために事務所に行くと、鍵がかかっていて中に入れない状態に。外では恐い顔をした人たちがドアを叩いており、事務所が急に無くなってしまうという、まさに予想外の出来事でした。
事務所が倒産したことで、伍代夏子さんは一旦歌手活動を休止せざるを得ませんでした。その後、レコード会社でOLとして働くことになります。お茶くみや電話番、経理の手伝いといった裏方の仕事をこなしながら、彼女は「歌手としての仕事」とはどれほど多くの人々の支えがあって成り立っているのかを実感することになったと語っています。
加川有希として再出発
1985年、伍代夏子さんは芸名を「加川有希」に変え、新たなスタートを切ります。
この名前でリリースした「夜明けまでヨコハマ」では、元プロ野球選手で元横浜大洋ホエールズの平松政次さんとのデュエットが話題になりました。
しかし、実際のところ、平松さんはプロ野球の解説や多忙なスケジュールのため、キャンペーン活動にほとんど参加できませんでした。
「加川有希」名で1985年に発売した「夜明けまでヨコハマ」(当時23歳)(出典:colaboy)
でもこの頃、平松さんが忙しすぎて、キャンペーンはほぼ伍代さんが一人でやらなきゃいけなかったんだよね。
デュエット曲のキャンペーンなのに一人で?!それは過酷すぎるわ!
そのため、伍代夏子さんは全国を一人で回り、平松さんの声が入ったテープに合わせて歌うという形で活動を続けることになりました。
「加川有希」名で1985年に発売した「ロマンティック」しましょう(当時23歳)(出典:auctions)
デビューから数年が経っても目立った成功には繋がらず、それでも彼女は一生懸命活動を続けていました。
こうした地道な努力があったからこそ、後の「伍代夏子」としての成功があるんだね。
本当にそう。苦労して積み上げた経験は、必ず未来の力になるってことよね
本名「中川輝美」への改名
芸名を再び変更する決意
2度目の改名「加川有希」でもヒットには恵まれず、事務所から「心機一転、名前を変えよう」という提案を受けた伍代夏子さん。
これまでの芸名「加川有希」は、字画や意味を慎重に考えた上で名付けられたものでしたが、結果的には大きな成果を得ることができませんでした。そのため、今回は思い切って本名の「中川輝美」に戻すことに決めます。
「面倒くさくなっちゃって、本名でいいや」
最初は本名で活動することに少し抵抗もあったそうですが、意外にも「面倒くさくなっちゃって、本名でいいや」と軽い気持ちで決断したのだとか。このシンプルで軽い決断が、後に彼女の演歌歌手としての道を切り拓くきっかけとなりました。
案外、軽い気持ちで決めたことがうまくいくこともあるよね!
演歌路線への転向
これまで「星ひろみ」「加川有希」といった芸名でポップス路線を試みましたが、なかなか思うような結果が得られなかった伍代夏子さん。
「次こそは着物を着て演歌を歌いたい」と決意し、演歌への転身を図ります。この転向は、後に彼女が演歌歌手として確固たるスタイルを築くための大きな基盤となりました。
本名「中川輝美」に改名してからは、演歌歌手としての本格的な活動をスタートし、衣装にも着物を取り入れ、演歌歌手らしい姿を模索し始めました。この頃から、彼女の演歌歌手としての道が本格的に開けていきました。
「夢きずな」での新たなスタート
こうして1986年に本名「中川輝美」としての活動を再開した伍代夏子さんは、作詞:荒木とよひさ、作曲:岡千秋という実力派のコンビによるシングル「夢きずな」を発売します。
このシングルのリリースは、事務所が彼女を演歌界のトップスターにするという明確なビジョンを持って取り組んでいたことを示しています。
本名の「中川輝美」で出したシングル「夢きずな」作詞:荒木とよひさ、作曲:岡千秋(出典:auctions)
荒木とよひささんと岡千秋さんは、日本の音楽業界を代表する作詞家と作曲家だよね!
伍代さんの事務所が社運をかけていたのが伺われるわね
このシングルが成功すれば、彼女はヒットチャートの上位にランクインし、一躍スターダムに押し上げられることを事務所も狙っていたと考えられます。
「伍代夏子」誕生と再デビューの道
25歳で再デビュー
1987年、25歳で「伍代夏子」として再デビューを果たします。
この時、彼女はこれまでの苦しい時期を乗り越え、演歌歌手としての道を確立し始めます。デビュー曲「戻り川」は大ヒットし、35万枚以上の売上を記録。
これにより、伍代夏子さんは広く知られることとなり、その名は演歌界にしっかりと刻まれることになりました。
地道な努力とヒットの秘密
再デビューに至るまで、伍代夏子さんは非常に苦しい時期を過ごしました。レコード会社の店頭や温泉施設の休憩所などで手売り営業を行い、一日で7〜8箇所を回る日々を送りました。
「戻り川」キャンペーンの模様(1988年) (出典:ORICON NEWS)
この地道な努力と情熱が実を結んだんだね。
1990年、29歳の時に「忍ぶ雨」で紅白歌合戦には初出場を果たしたのよね!
芸名「夏子」の由来
伍代という名前は、五木ひろしさんの「五」と八代亜紀さんの「代」を掛け合わせたというのが由来です。漢字の持つ意味や、字画のバランスなども考慮して、人偏を付けて「伍」という字が選ばれたと言われています。
伍代夏子さんは12月18日の冬生まれ。でも「夏子」なのね!
伍代夏子さんは、この芸名を「一生もの」として大切にしているんだって
旦那さんの杉良太郎さんと。今年銀婚式を迎えた芸能界きってのおしどり夫婦です(出典:chanto)
7月25日は「伍代夏子の日」!
実は、7月25日は「伍代夏子の日」として制定されています。この記念日は、伍代夏子さんの所属事務所である株式会社ボイスミュージックが、彼女の名前の由来やファンへの感謝の気持ちを込めて設けたものだと言われています。
では、なぜ7月25日が選ばれたのでしょうか?
その理由は非常にシンプルで、「な(7)・つ(2)・こ(5)」と、伍代夏子さんの名前「夏子」を数字に置き換えると、ちょうど7月25日になるからです。このような数字にちなんだ記念日があることに、少し遊び心を感じさせられますね。
八代亜紀さんとの思い出
伍代夏子さんは「星ひろみ」として1982年にデビューしましたが、事務所の倒産により一時、歌手活動を中断せざるを得ませんでした。
その後、レコード会社で事務員として働くことになった際に担当していたのが、演歌界の大先輩であり、憧れの存在でもあった八代亜紀さんでした。
八代亜紀さんとはデビュー当時から付き合いのあった伍代夏子さん(出典:bs-asahi)
事務員として八代亜紀さんをサポートしていた伍代さんが、再び「伍代夏子」として歌手活動を再開することになった際、八代さんは心から喜んでくれたと言います。
2023年に亡くなった演歌歌手の八代亜紀さんとは40年以上の間柄だったそうだよ
伍代夏子さんは、2024年8月に放送された「徹子の部屋」に出演し、八代亜紀さんへの思いを語りました。
1990年12月「忍ぶ雨」紅白に初出場が決まった際に、八代亜紀さんに着物を見せる伍代夏子さん(出典:スポニチ)
八代さんは伍代さんにとってデビューのきっかけを作った恩人であり、40年以上にわたる深い絆がありました。デビュー当時、八代さんは「一緒に頑張りましょうね」と温かい言葉をかけてくれ、それは伍代さんの心に深く残っていると語っていました。
普通は「頑張ってね」と言う人が多い中、八代亜紀さんだけは「一緒に頑張りましょうね」と言ってくれたのが感動的だったそうよ
また、八代さんの訃報を受けて、伍代さんは涙ながらにその悲しみを語り、亡くなる直前には一緒に全国コンサートを行う予定だったことを明かしました。突然の別れに、伍代さんは「耐えられなかった」と語り、八代さんの温かさや励ましがいかに大きな支えとなっていたかが伝わる場面でした。
まとめ
芸能活動42周年の伍代夏子さん(出典:スポニチ)
伍代夏子のプロフィールと芸名の変遷
伍代夏子(ごだい なつこ)
・生年月日:1961年12月18日(62歳)
・本名:山田輝美(旧姓:中川)
・夫:杉良太郎(本名:山田勝啓)
デビューから現在に至るまで、伍代夏子さんは複数の芸名を使用してきました。
- 星ひろみ(1982年7月7日)
伍代夏子さんの最初の芸名は「星ひろみ」。1982年にこの名前でデビューし、アイドル歌手としてのスタートを切りました。
- 加川有希(1985年4月)
その後、1985年には「加川有希」に改名し、デュエット曲「夜明けまでヨコハマ」をリリース。しかし、ポップス路線では思うような成果を得られず、再度改名を決意します。
- 中川輝美(1986年7月21日)
1986年には本名に戻り、「中川輝美」として活動。演歌の道を模索し始め、「夢きずな」を発売。これが演歌歌手としての第一歩となり、次第に演歌歌手としての地位を確立していきます。
- 伍代夏子(1987年9月21日)
そして、1987年に再び芸名を変更し、「伍代夏子」として再デビューを果たします。この「伍代夏子」という名前は、彼女の音楽キャリアを象徴する重要な名前となり、演歌歌手として広く認知されるようになりました。
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