宮嶋みぎわとは?
宮嶋みぎわ プロフィール
宮嶋 みぎわ(みやじま みぎわ)は、1974年生まれの茨城県出身の日本人。
現在はアメリカ・ニューヨーク市に在住しているジャズピアニスト、作曲家、編曲家、グラミー賞ノミネートのプロデューサーです。
彼女はグラミー賞の投票権を持つことでも知られ、ジャズの本場であるニューヨーク市長室から助成金を受賞しています。
主要な業績
- 2020年: ニューヨーク市長室が選ぶ94組の優秀な女性芸術家の一人に選出。
- 2021年: ジョン・レノン作曲賞ジャズ部門で準優勝。
- グラミー賞: プロデューサーとしてグラミー賞ノミネート作品に4回参加。
音楽キャリア
ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ The Vanguard Jazz Orchestra (VJO)
- 音楽家に転身してから5年でヴァンガード・ジャズ・オーケストラの副プロデューサーに大抜擢
- ヴァンガード・ジャズ・オーケストラの作品でグラミー賞ノミネート2回
(ほか作品でもグラミー賞ノミネート3回)
活動とリリース
2012年: 38歳でニューヨークに移住
ミギー・オーグメンテッド・オーケストラを立ち上げる
- アルバム: 「Colorful」(2018)
- 音楽付き絵本: 「You Future Story」(2021)
その他の活動
- 国際女性音楽家団体(IAWM): 役員
- 国際ジャズ作曲家団体(ISJAC): 委員
学歴
- 茨城県立日立第一高校を卒業
- 上智大学文学部教育学科を卒業
音楽大学に進学しなかったのはなぜ?
過去のインタビューで、音楽大学に進学しなかった理由について、宮嶋さんはこのように語っています。
~音楽大学に進学しなかった理由~
・音楽を始めたのは3歳でこの頃からピアノを弾き始めた。
・周りからは「どうして音楽大学に進まないのか?」と不思議がられるほど、音楽がとても大好きだったが、音楽大学に進学すると音楽しか学ぶことができない、音楽以外の学習が制限されることを認識。
・「自分の特徴を理解してそれを活かす人生」を送るためには、世の中全般のこともっと知って、音楽以外の勉強もすることが必要だと感じる。
・その結果、音楽に専念することなく、幅広い教養を身につけるために上智大学への進学を決定した。
生い立ち
音楽を始めたのは何歳から?
宮嶋みぎわさんが音楽に触れ始めたのは赤ちゃんの頃からでした。
彼女はお母さんの膝の上でピアノの音色に触れていたといいます。
子どもの頃の記憶には、いつもピアノの音があったそうです。
画像:NYNicheより
お母さんの膝の上に座ってピアノに触れる赤ちゃん時代のみぎわさん
宮嶋みぎわさんのお母さんの宮嶋裕子さんは「氷点」で有名な作家・三浦綾子の初代秘書です。
お母さんの裕子さんは、他者のために生きる姿勢を秘書として作家・三浦綾子から学びます。
その学びを、母から受継いだみぎわさん。
みぎわさんはその後、音楽という形で「社会貢献」をする人生を歩みます。
みぎわさんの「社会貢献」への思いはお母さんの影響が大きいのね
ピアノは何歳のときに始めた?
「ピアノを始めたのは3歳です。3歳から母が家で教えてくれて、5歳からはヤマハの音楽教室で習い始めました」とみぎわさんは語っています。
みぎわさんのお母さんは保育士で、音楽が大好きでしたが、戦後の厳しい経済状況のために音楽を習うことはできなかったようです。
しかし、結婚後に念願のピアノを手に入れ、娘のみぎわさんに弾き聞かせるようになりました。
音楽に強い興味を示すみぎわさんを見て、母親はみぎわさんが5歳の時にヤマハ音楽教室に連れて行ったのだそうです。
家庭の中で育まれた音楽への情熱が、みぎわさんのキャリアの原点になっているんだね
初めての作曲は6歳!
宮嶋さんが初めての作曲したのは、6歳の時に作った「サーカス」という曲。
家族でサーカスを見た日に、帰宅するなり、みぎわさんは、ピアノがある部屋の奥まで走って行って突然曲を作ったそうです。
6歳で作曲した「サーカス」ってどんな曲だろうね
6歳で自ら作曲した「サーカス」を大人になったみぎわさんご本人のピアノ演奏です!
家族で見に行ったサーカスでの感動を音楽で表現した6歳のみぎわさん。
幼少期からのこの感性が、彼女の音楽活動の原点となっています。
サーカスの楽しい雰囲気や驚きが伝わってくるわ
動画の最後でみぎわさんが見せるあの笑い方がなんとも!
職歴
大学卒業後の22歳でリクルートに入社し、30歳までに3つの仕事を経験。
- SUUMO部署での住宅広告制作:住宅広告の制作を担当
- 社内のシステム開発(ITエンジニア):ITエンジニアとしてシステム開発に従事
- 旅行雑誌「じゃらん」編集デスク:編集者として記事執筆を担当し、最終的に編集デスクとしてチームをリード
しかし、「音楽を通じて社会貢献ができる人になりたい」という強い意志のもと、30歳でリクルートを早期退職。音楽家に転身しました。
リクルートを早期退職したのはなぜ?
過去のインタビューでリクルートを退職した理由について、宮嶋みぎわさんはこのように語っています。
リクルートでの仕事について
リクルートでの仕事はやりがいのあるものだった、という。
宮嶋さんは、旅行雑誌「じゃらん」の編集デスクとして働いており、日本全国の魅力的な場所を多くの人に知ってもらうための仕事に取り組んでいました。
「どうやったら自分しか知らないあの場所の魅力をたくさんの人に知ってもらえるか」
「そこに住む人の人生も変えるし、その場所を訪れた人の人生も変える」
このように、じゃらんの編集デスクとしてやりがいを感じられる楽しい仕事であった、といいます。
しかし、30歳までに気づいたことは、民間の会社にいると会社の利益を出すことをサポートする仕事しかできないということでした「。
会社目標とズレたことは許されない。
宮嶋さんは自分の情熱や方向性がはっきりしており、それを生かすためには新たな一歩を踏み出す必要を実感したそうです。
音楽を通じて社会貢献ができる人になろう
宮嶋さんはもともと、自分がこうしたい、ああしたいという方向性がはっきりしている性格。ところが、自分がどこかに所属しているとそれが発揮できない、と認識しました。
自らの情熱や目指す方向性が会社の枠組みに収まりきらないと感じた宮嶋さん。
「音楽を通じて社会貢献ができる人になろう」と決め、リクルートを30歳で早期退職を決意。
このとき、退職後の、定職やプランは何も決まっていなかったといいます。
ずっと持ち続けているリクルートへの感謝の気持ち
宮嶋さんはリクルートへの感謝の気持ちを常に持っていて、リクルートには次のような思いがあります。
- リクルートという会社は、みぎわさんのような個性が強すぎるパワーが強烈なはみ出しっ子を採用して育ててくれた。
- リクルートでたくさんの貴重な経験ができたおかげでNYで活動できる基盤ができた。
- インタビューなどを受ける際には、いつもリクルートへの感謝を語るようにしている。
みぎわさんは当時のリクルート人事部の人と今でも交流があるんだって
インタビューがある度ごとに「今の自分があるのはリクルートのおかげ」って話しているそうよ
リクルートと退職金
このように宮嶋みぎわさんは2004年、30歳の時にはリクルートを退職したわけですが、実は当時、リクルートには、追加の退職金が与えられる制度があったそうです。
それは、退職者が「退職後にこういうことをします」と決意表明する論文を提出する制度。
そして優秀者は追加の退職金がもらえたのです。
宮嶋さんはこの制度を利用し、「ビッグバンドで世の中を変えます」という論文を提出しました。
その結果、見事!追加の退職金を受け取ることができました。
宮嶋さんは「この退職金でアメリカに何度も来ることができた」と、リクルートには今でも感謝しているようです。
苦難と克服:アルバイトからのスタート
しかしながら、会社を辞めてからの生活は、実は容易ではなかったそうです。
会社員という肩書きがなくなり、貯金が底をつき苦しい日々が続きました。
音楽以外のアルバイトも必要になり、東京での生活に慣れるまでには時間がかかりました。
それでも、みぎわさんは自らの情熱に従い、音楽活動を続けました。
成功を収めるまで、粘り強く努力し続けたんだね
宮嶋みぎわ 音楽家への転身
宮嶋みぎわさんは、30歳の時に7年半働いたリクルートを退職し、音楽家として活動していく人生を歩み始めていきます。
では、いったいどうやって宮嶋みぎわさんは夢を形にしてきたのでしょうか。
どうしたら、宮嶋みぎわさんのように、着実に夢を叶えることができるのでしょうか。
次からは、その方法についてみてきたいと思います。
リクルート社員からジャズバンドリーダーへ
宮嶋みぎわさんは、実はリクルート社員2年目から、週末に音楽活動を始めていました。
学生時代にジャズでつながったメンバーで社会人バンドを立ち上げ、吉祥寺のリハーサルスタジオ「壱之助」で週末に練習を重ねていたのでした。
彼女が立ち上げたそのバンドの名前は「miggy+(ミギーオーギュメント)」。
ここで演奏する曲は、全曲みぎわさんのオリジナル曲でした。
このmiggy+(ミギーオーギュメント)の活動は着実に人気を集めていきました。
ライブチケットは毎回完売し、彼女のバンドは東京で最も人気のあるジャズバンドの一つとして知られるようになりました。
人生の転機となったヴァンガード・ジャズ・オーケストラとの出会い
とある大きな事情で、miggy+(ミギーオーギュメント)で予定していたコンサートが全てキャンセルになってしまう、という事態がみぎわさんに起こりました。
2008年2月、みぎわさんが会社を辞めて3年経った時のことです。
それまで予定していたmiggy+のスケジュールががら空きになってしまった失意のみぎわさんでした。
ところがそのキャンセルとなった週と全く同じ週に、ニューヨークで「The Vanguard Jazz Orchestra(ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ)」が1週間毎日演奏をするアニバーサリーウィークがあることを知ります。
The Vanguard Jazz Orchestra ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ(略称VJO)とは、50年以上の歴史を持つ世界一のバンドです。
通常は、VJOは1週間に1回しか公演しません。つまり、2回VJOの演奏を聴きたければ、2週間はニューヨークに滞在する必要がある、ということです。
ところが、miggy+のスケジュールが空白になったその週だけ、彼らは1週間毎日演奏するというのです!
miggy+の突然の空白にこんなにドンピシャな出来事が起きるなんて!
物事には全て理由があるって本当ね
ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ 日本ツアーへの決意
こうして、宮嶋みぎわさんは、10代の頃から憧れ続けたジャズのスターたちの演奏を聴くため、ニューヨークへ飛び立ち、The Vanguard Jazz Orchestra(ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ)VJOが演奏するジャズクラブに1週間毎日通いました。
寒い冬の日でも、ドアが開く1時間前から並んで最前列で演奏を聴き、メモを取りながら涙を流して彼らの音楽を聴いていたそうです。
VJOの演奏者たちも、連日熱心に彼らの音楽を聴いているみぎわさんの存在に気づき始め、「日本から変わった女の子が来ている」と彼女を面白がり、楽屋に招待してくれるまでになりました。
そして、1週間のうちにすっかり仲良くなったみぎわさんとVJOの演奏者たち。
会話をしていくうちに、みぎわさんはVJOが日本ツアーを本当はしたがっていることを知ります。
日本ツアーは以前はしていたのですが、日本とニューヨークの架け橋役だった人が亡くなってしまい、それが原因で、日本ツアーができずにいた、というのです。
また、VJOはジャズ教育を通じて世界に貢献するNPO法人でもあることがわかり、みぎわさんはその活動にも共感しました。
こうして、みぎわさんはニューヨーク滞在中の1週間の間に、「絶対に彼らと日本ツアーをやろう」と決意するのでした。
画像:NYNicheより
The Vanguard Jazz Orchestra(ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ)と運命的な出会いをしたころの宮嶋みぎわさん
VJO日本ツアーの実現への道
英語の習得
宮嶋みぎわさんは具体的にどのようにしてThe Vanguard Jazz Orchestra(ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ)日本ツアー実現したのでしょうか。
当時のみぎわさんは日本在住。そこから英語を猛勉強しました。
まずは、英語のインプット。
インプット方法は、NHK番組で勉強。
アウトプットはオンライン英会話。
英会話の練習を毎日続けたら、1年半の間に話せるようになりました。
ちなみにみぎわさんが使っていたオンライン英会話は「レアジョブ」だそうです。
1年半で英語が話せるように?
みぎわさんがどれだけ努力をしたかがわかるエピソードね
The Vanguard Jazz Orchestra(VJO)の日本ツアー成功とジャズのワークショップ実現
日本ツアーでVJOの正式な一員に
宮嶋みぎわさんは2009年12月、VJOとしては初、VJOの前身のバンド・メル・ルイスから数えると20年ぶりの日本ツアーを「BLUE NOTE TOKYO(ブルーノート東京)」で実現させました。
最初は、ボランティアとして日本ツアーに参加していました。
が、ツアーが成功した翌月の2010年1月に「正式に副プロデューサーとして日本人代理人に就任してほしい」というオファーが。
みぎわさんは、副プロデューサーとして正式な一員としてVJOに加わることとなったのです!
憧れのジャズオーケストラの一員になれたなんて!
その後も、2016年まで毎年のように日本でのツアーを続けました。
The Vanguard Jazz Orchestra(VJO)による夢のワークショップの実現
もともと、ジャズを学びたいという日本の若い子たちに、本物のジャズに触れて、学べる機会を与えてあげたい、という強い思いをもっていたみぎわさん。
ついに、2010年には「ビルボードライブ東京」で、VJOによる念願のワークショップを実現させ、「人を育てる」という教育分野でも力を発揮します。
VJOの日本ツアーだけでなく、ジャズを学べる場となるワークショップも定期的に開催し、2016年までの間にワークショップには1200人以上が参加したそうです。
ワークショップで、VJOのような一流の演奏家がすぐ目の前で演奏してアドバイスもしてくれるなんて!
ジャスを学ぶ人にとっては夢のようなことよね
画像:NYNicheより
The Vanguard Jazz Orchestraヴァンガード・ジャズ・オーケストラ(VJO)の副プロデューサーになったみぎわさんとVJOの演奏者たち
ヴァンガード・ジャズ・オーケストラの作品でグラミー賞にノミネート
みぎわさんと The Vanguard Jazz Orchestra ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ(VJO)との係わりは、VJOの日本ツアーやワークショップに留まりませんでした。
彼らの作品をプロデュースしたことで、副プロデューサーとしてグラミー賞にノミネートされたのです。
しかも2回もです!
2011年 第54回グラミー賞ノミネート:「Forever Lasting – Live in Tokyo」
2014年 第57回グラミー賞ノミネート:「OverTime – Music of Bob Brookmeyer」
そもそもは、一人の観客としてVJOの公演を見に行ったみぎわさん
それが、自分がプロデュースした作品でグラミー賞にノミネートされるなんて!
NYへ研修留学
そして2012年、38歳の宮嶋みぎわさんはNYへ移住します。
この当時の文化庁は、将来性のある様々な芸術分野の人材を海外で研修させるために、毎年約100人を選出していました。
みぎわさんはこの制度を利用し、文化庁の作曲家として奨学金を受け取ることに成功。
1年間ニューヨークで研修留学する機会を得たのでした。
この研修留学先で、みぎわさんはジム・マクニーリー氏に師事しました。
また、BMIジャズ・コンポーザーズ・ワークショップに参加し、毎週新しい作曲技法を学んで作品を提出しました。
この努力が講師のマイク・ホロバー氏やジャズ仲間たちに感動を与え、「あの子ほどがんばりやで、勉強家はいない」と評判になったといいます。
自分のビッグバンドを立ち上げる:ミギー・オーグメンテッドの結成
2014年、宮嶋みぎわさんはニューヨークで自身のビッグバンドMiggy Augmented(ミギーオーグメンテッド)を結成します。
メンバーを集める際には、研修留学先の友達に声をかけたり、また新たなメンバーを取り入れたく、スカウトもしたそうです。
みぎわさん自ら選りすぐったメンバー17人によるジャズバンド「Jazz Orchestra Miggy Augmented」(ミギーオーグメンテッド)は、2017年7月にNYの老舗ジャズクラブ「BIRDLAN(バードランド)」に初登場!
歴史に名を残します。
みぎわさんのバンド、Jazz Orchestra Miggy Augmentedは米国NYのレーベルArtistShareより、
・2018年 アルバム「Colorful」
・2021年 音楽付き絵本「You Future Story」
をリリースします。
みぎわさんのバンドJazz Orchestra Miggy Augmentedの魅力が1分間にぎゅっと詰まったYouTube動画となっています。
宮嶋みぎわ 徹子の部屋に
そんな宮嶋みぎわさんが徹子の部屋に出演されます。
放送日は2024年5月22日 13:00~。
放送当日は、みぎわさんのこれまでの半生についてご本人の言葉で聞くことができるチャンスです。
パワフルなみぎわさんの生き方をぜひ番組でご覧になってください。
また、放送では生歌を演奏するそうです。
これは、みぎわさんのオリジナルの曲で、タイトルは「きみはほんとうはいい子だよ」。
そうです、黒柳徹子さんの著書「窓際のトットちゃん」が背景にある曲となっています。
画像:NYの音楽家 Miggy 宮嶋みぎわより
当日は、曲のプレゼントだけでなく、このような素敵なオリジナルの楽譜も徹子さんにプレゼントするようですよ。
まとめ
宮嶋みぎわさん、本当に素晴らしい人で、私はこのブログを書きながらみぎわさんのことが大好きになってしまいました。
私がこのブログを書きながらみぎわさんから学んだことは、
- 自分を料理の素材と捉える
- 意思決定するときに自信があるかどうかはどうでもよい
- 自分という食材を活かしきること
- 自分の特徴を理解してそれを活かす
私も、自分の特徴・個性を活かして人の役に立てる人生を歩んでいきたいと思います。
そうすることで、私を育ててくれた両親、支えてくれた家族・友だちへの恩返しにもなるからだと思うからです。
まずは自分と関わりのある周りにいる人が喜んでもらえる、幸せになってもらえるために、できることをひとずつこなしていきたいと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
コメント