クレーンユウの現在は?結婚・レフリーや現役引退について解説【極悪女王】

極悪女王
スポンサーリンク

Netflixシリーズ「極悪女王」が大ヒット配信中で話題になっていますね。今回は、ダンプ松本と「極悪同盟」を結成したクレーン・ユウさんの現在についてまとめました。

極悪同盟
左:ダンプ松本
右:クレーン・ユウ
(出典:東スポWEB)

クレーン・ユウさんといえば、「極悪同盟NO.2」としてダンプ松本とヒールで活躍されましたが、「うちがやる!」レフェリーへ転身した後の「極悪女王」のシーンで涙が止まらなくなった人も多いのではないでしょうか。

本庄ゆかりレフリー「うちがやる!」の名言で、溢れた涙はもはや止めることができません。(画像:Netflix X)

結婚して夫や子どもはいるのか、今もレフリーとして活躍しているのか、あるいはプロレスラーとして現役で活動しているのか、プロレスラーを目指したきっかけなどについて解説していきます。

スポンサーリンク

クレーンユウ 基本情報

本名本庄 ゆかり(ほんじょう ゆかり)
生年月日1962年10月31日(2024年で62歳に)
出身地東京都北区
身長173cm
体重100kg(全盛期)、現在約75kg
プロデビュー1980年

クレーンユウは結婚している?

現在、クレーンユウさんは独身ですが、過去には結婚歴があります。ご結婚ののち離婚したとのことですが、その理由として旦那さんの借金問題が噂されています。離婚後はシングルマザーとして3人の子どもを育ててきました。

おばあちゃんレスラー・クレーンユウ

長女は独身で、長男と次男はそれぞれ結婚しており、クレーンユウには孫もいます。長男は千葉県柏市、次男は大宮市に住んでおり、月に1回か2回程度、孫の世話をしに行っているとのことです。

ライリー
ライリー

クレーンユウさんの娘さんは、クレーンユウさんと見た目はあまり似ていないけど、中身はクレーンユウさんにそっくりなんだって。

スポンサーリンク

クレーンユウの現役引退とレフリー転身の経緯

クレーンユウさんは、1982年頃「マスクド・ユウ」という名前で、デビル雅美率いるデビル軍団に所属していましたが、1984年にダンプ松本が設立した「極悪同盟」に加入します。

デビル軍団(出典:YouTube)

Netflixの「極悪女王」では、彼女が「マスクド・ユウ」から「クレーン・ユウ」に改名し、覆面を脱ぎ捨てるシーンが印象的ですね。

1985年当時
左:ブル中野(当時中野恵子)
右:クレーン・ユウ(出典:https://sakura001.sakura.ne.jp/gokuaku/1985_02/198502_010.html)

ライリー
ライリー

覆面レスラーになった理由は「お前は人が良すぎるから、覆面被れ」と全女から言われたからなんだって

しかし、クレーンユウは次第にダンプ松本のプロ意識の高さについていけなくなりました。ダンプは極悪同盟のファンであっても、試合会場でのサインやファンサービスには一切応じない姿勢を貫いていました。
それに対して、クレーンユウはダンプ松本の目を盗んでファンサービスを行ってしまい、これがダンプの怒りを買う結果となりました。

1985年当時のクレーン・ユウさん(出典:https://sakura001.sakura.ne.jp/gokuaku/1985_02/198502_010.html)

ヒールは絶対にファンと写真を撮ったり、サインをしてはいけない。ところがクレーンユウは人がいいのか、人気が爆発してうれしかったのか、ファンの要望に応じてサインしちゃうんだ。

ファンから殺意すら抱かれるヒールに徹していた自分は、そういう部分がとても不満だった。(ダンプ松本)

クレーンユウはこの時の心情をこう語っています。

「ダンプさんはファンの人と話しちゃダメだと言うけれど、私は喋りたかった。喋っちゃダメ、笑っちゃダメ、サインしちゃダメ、そんなことをしていたらファンなんて増えない。

私にとっては、たとえ1人のファンでも大事で、応援してくれるのが嬉しい。彼らが必死になって遠くから私に会いに来てくれることが、すごく大切でした

スポンサーリンク

引退を決意するきっかけは?

1985年4月26日、茨城県鹿島町立体育館で開催されたシングルリーグ戦「第1回ジャパングランプリ」の開幕戦で、クレーンユウとダンプ松本の対戦が行われました。

ダンプ松本との壮絶な大流血試合。今までタッグ を組んでいたダンプ松本から激しい攻撃を受け顔面血だらけのクレーンユウ(出典:YouTube)

試合序盤からチョークや顔面かきむしりなどの反則攻撃が続き、ダンプはブル中野をセコンドにつけ、二人がかりでユウを攻撃。

結果、クレーンユウは大流血し、試合はノーコンテストに終わりました。この試合で、クレーンユウはダンプの過激な攻撃に戸惑っている様子が見られるところから、事前のブックはなかったようです。

レフリーはこの人!極悪レフリー阿部四郎。
クレーンユウへの攻撃が激しすぎて、さすがの悪徳阿部四郎レフェリーでさえもダンプに対して反則カウントを(出典:YouTube)

試合中、ダンプ松本は「お前とはもうタッグを組めるか!極悪同盟から追放だ!」と叫び、クレーンユウもそれに応じて極悪同盟を抜けることに。

スポンサーリンク

勝手に決められた引退?

しかし、クレーンユウには引退する意図はこのときはまだなく、ベビーフェイスに転向するつもりでいました。ところが、全日本女子プロレスの代表が勝手に「クレーンユウは引退します」と発表してしまったのです。

植田(信治)コミッショナーが会場のテレビ解説席で、番組の最後に「クレーン・ユウは引退します!」って言っちゃったの。そこがカットできないから、引退になっちゃったの。

ダンプ松本「お前とはお別れだ」(出典:YouTube)

この突然の引退発表に対して、クレーンユウは会社と交渉するのを面倒だと感じており、そのため特に異議を唱えませんでした。最終的には、レスラーを引退し、本名の本庄ゆかり名義でレフリーに転身することを受け入れる形となりました。

本来はヒールからベビーフェイスへ転身する話が進んでいたものの、その日がいつかは決定しておらずそんな曖昧な状況の中、クレーンユウですら予期せぬ形で引退が発表されたのです。

ダンプ松本のセコンドを務めたブル中野。半剃り部分には「ご意見無用」の文字(出典:YouTube)

スポンサーリンク

「うちがやる!」はフィクションだった!?

Netflix「極悪女王」では、ダンプ松本の1988年の引退試合で長与千種とタッグを組んだ伝説の5分間のエキシビションマッチを見ると、クレーンユウが「レフリー・本庄ゆかり」に転身することを自ら望んだかのよう見えます。しかし、実際にはレフリー転身の決定は会社(全女)が一方的に行ったものでした。

「ダンプ&長与 vs 飛鳥&大森」同期55年組の夢のタッグ試合でのレフリーは「ジミー加山」です(画像:YouTube)

モーリー
モーリー

あ、そうなのね実際のあの試合のレフリーは本庄ゆかりではなく、ジミー加山だったのね

その直前の「ダンプ&大森 vs クラッシュギャルズ」の試合のレフリーは極悪・阿部四郎レフェリーでしたが、その後すぐに予期せず開催された「ダンプ&長与 vs 飛鳥&大森」ではレフェリーが極悪・阿部四郎→松永副社長・ジミー加山に交代しています・

ライリー
ライリー

ジミー加山レフリーは全女松永兄弟四男の「松永国松副社長」だよね!

四男の松永国松(演:黒田大輔)(出典:oricon)

全女・松永兄弟特集
モーリー
モーリー

でも、本庄ゆかりレフリーの「うちがやる!」は最高の見せ場よね。涙腺崩壊のシーンだわ

スポンサーリンク

「(レフリーは)うちがやる!」の名場面は事実とは異なっていますね(画像:Netflix X)

ライリー
ライリー

全女に「おまえは明日からレフェリーだ」と言われて、クレーンユウさんは全女に抗議しなかったんだって

モーリー
モーリー

えー!そんな大事なことなのに?

ライリー
ライリー

クレーンユウさんは「何で私がレフリーに?とは思ったけれど、まあいいかって」って感じだったらしい

そもそも、クレーンユウになる前の「マスクド・ユウ」として覆面レスラーになった理由も、全女の命令でした。その背景には「性格が優しいから、ヒールなのに悪いことができないから覆面をかぶれ」という指示があったのです。

その後、ダンプ松本が設立した「極悪同盟」でクレーンユウは極悪同盟のNO.2として活動していましたが、1985年4月26日の茨城県鹿島町立体育館での試合において、ダンプ松本から「オマエとは今日でお別れだ!」と極悪同盟から外されてしまいまします。

その理由は、ダンプ松本が極悪同盟のファンに対してサイン会以外では一切ファンサービスを行わなかったのに対し、クレーンユウがダンプの目を盗んでファンサービスを行ったため、ダンプが怒ったからです。

すべては、クレーンユウさんの根っからの優しい性格によるものでした。世間では、ダンプ松本さんが「実は優しくてとてもいい人」とされていますし本当にそうなのですが、実際にはその陰にクレーンユウのダンプさんに引けを取らないほどの優しい性格があるのだと思います。

スポンサーリンク

クレーンユウの復帰とその後の活動

その後、クレーンユウは獄門党のマスクウーマン「ダイナマイト・ジャック」としてリングに復帰しましたが、1989年4月22日、大阪府立臨海スポーツセンターで本庄ユカリ名義でライオネス飛鳥を相手に引退試合を行い、現役を引退しました。

メモリアル・オールスター戦への参加

1998年8月14日、川崎市体育館で行われたダンプ松本・大森ゆかり・ジャンボ堀が発起人の「メモリアル・オールスター戦~あの時、君は強かった!!」に参加し、ファンに再会を果たしました。

極悪同盟の復活

2003年5月11日、横浜アリーナで開催された『全日本女子プロレス創立35周年記念大会 The Future』では、松永俊国メモリアルマッチ「極悪同盟復活」としてダンプ松本とタッグを組み、立野記代・小倉由美との対戦を果たしました。この日は、極悪同盟のタッグが一日限りの復活を果たしました。

2005年1月17日、後楽園ホールでの全日本女子プロレス「ダンプ松本&ZAP・T&サソリvsジャガー横田&立野記代&井上貴子」戦では、極悪同盟としてコンドル斉藤・ドリル仲前らと共にセコンドとして参加しました。

引退興行や記念興行への参加

2005年8月、後楽園ホールで行われたLLPWの「立野記代25周年記念バトルロイヤル」にOGとして参加。2007年2月12日、両国国技館でのLLPW「女子プロレス最強決定トーナメント」では、ダンプ松本のセコンドとして関わりました。

2012年1月8日には、東京ドームシティホールで行われたブル中野引退興行「女帝」にレフェリーとして参加。2014年3月22日、大田区総合体育館での長与千種プロデュース興行「That’s 女子プロレス」では、ブル中野や影かほる、ZAP・Tと共に極悪同盟のセコンドとして参加しました。

プロレス復帰

2015年10月4日、インディーズのプロレス団体COMBOの第一試合でプロレス復帰を果たしました。2016年7月9日には、東京・新木場1stRINGで行われたダンプ松本&堀田祐美子主催興行「極悪×暴走」スペシャルエキシビションマッチにおいて、ダンプと久々にタッグを組み、かつての全女仲間であるジャンボ堀&大森ゆかりとのOG対決しています。

ライリー
ライリー

クレーンユウさんは引退と現役復帰を繰り返し、現在はCOMBOに所属する現役のプロレスラー

スポンサーリンク

クレーン・ユウがプロレスラーになったきっかけは?

ビューティーペアになりたかった

クレーンユウさんがプロレスラーを目指したきっかけは、ビューティーペアへの憧れでした。小学校高学年の頃、リング上で歌うビューティーペアの姿に心を奪われ、「ビューティーペアになる」と決意。その夢を叶えるため、全日本女子プロレス(全女)への入門を決めました。昭和55年(1980年)の春に、高校1年で中退して全女に入門することになります。

三禁は守ったことなし

クレーンユウさんが全女に入門した際、選手たちには「三禁」と呼ばれる厳しいルールが課せられていました。これは「酒・タバコ・男性(彼氏)」の三つを禁止するものでした。

しかし、クレーンユウさんはこの三禁を一度も守ったことがありませんでした。高校生の頃からタバコを吸い、お酒も飲み、また男性も困らず、彼氏が途切れることはなかったと語っています。

現在のクレーンユウさん。今でもお酒は大好き(画像:YouTube)

覆面について

入門後、見た目は悪役(ヒール)ではありませんでしたが、全女からは「ヒールとして活動するように」と指示され、さらに「人が良すぎる。顔を覆面で隠せ」と命じられます。

覆面は自腹で購入する必要があり、その価格は1枚約2万円と非常に高価でしたが、全女からは支給されず、全て自費で賄わなければならなかったようです。

ライリー
ライリー

マスクを被る理由はお人好しの優しい顔立ちを隠すためだったんだね

スポンサーリンク

まとめ

クレーンユウの現在は?結婚・レフリーや現役引退について

クレーン・ユウさんは2022年9月25日「還暦記念大会」を開催しました。(出典:battle-news)

ライリー
ライリー

ポスターに「ダンプ松本」の名前が!

クレーン・ユウ「還暦記念大会」(出典:combo prowrestling Instagram)

1985年4月26日の茨城県鹿島町立体育館での試合において、ダンプ松本が「オマエとは今日でお別れだ!」と宣言し、クレーン・ユウさんを血祭りに上げたことを考えると、こうして55年の年月を経て再び一緒に試合をすることは感慨深いものがあります。

スポンサーリンク

現在の活動

クレーンユウさんは、インデーズのプロレス団体COMBOで年に4回試合に出場し、現役プロレスラーとして活躍しています。正統派の「クリーン・ユウ」としてリングに立ち続けています。

COMBO試合のポスター
「2024年9月29日(日)板橋グリーンホール大会はチケット完売!」(出典:combo prowrestling Instagram)

結婚

レーンユウさんは過去に結婚しており、3人の子供(長女、長男、次男)がいます。現在は離婚し、その後はシングルマザーとして子育てをしています。現在は孫もいるおばあちゃんです。

レフリー

1985年4月26日、クレーンユウはレフェリーに転向し、最初の引退を迎えました。この時、彼女のプロレスラーとしての活動は一時休止しましたが、後に覆面トリオ「ダイナマイト・ジャック」として復帰しました。

現役引退

最終的な引退試合は1989年4月、大阪で行われたライオネス飛鳥との試合です。この試合でダイナマイト・ジャックのコスチュームのまま素顔を披露し、プロレスラーとしてのキャリアに幕を下ろしました。現在は、プロレス団体COMBOでクレーン・ユウとして活動を続けています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました