怪談師・編集者・オカルト研究家として、テレビやネットラジオ、さらにはイベントなど幅広いフィールドで活躍中の吉田悠軌さん。
彼の代表的な活動のひとつ「とうもろこしの会」は、現在の怪談ブームを支える重要な拠点の一つとなっています。
しかし、立ち上げ当初は「怪談師」という肩書を持つ人はほとんどおらず、吉田さん自身も成功への道を模索していた時期がありました。
この記事では、吉田悠軌さんがどのようにして怪談・オカルトの世界に魅了され、それを職業にするようになったのかを取り上げます。また、「とうもろこしの会」の名前の由来や「とうもろこしの会」不仲の噂にも焦点を当て、彼の活動の背景を探ります。
吉田悠軌のプロフィール
怪談師・・オカルト研究家の吉田悠軌(出典:tonarinoyj)
氏名 | 吉田 悠軌 よしだ ゆうき |
職業 | 編集者、作家、怪談師、オカルト研究 |
生まれ年 | 1980年12月16日 |
年齢 | 43歳(2024年10月現在) |
出身地 | 東京都八王子市 |
高校 | 中央大学附属高等学校 |
大学 | 早稲田大学第一文学部演劇映像コース |
吉田 悠軌さんは現在43歳なんだね!
吉田悠軌の経歴
吉田悠軌さんは、オカルト全般、特に「怪談」の収集・調査を行っています。
怪談サークル「とうもろこしの会」の会長であり、オカルトスポット探訪マガジン『怪処』の編集・発行人でもあります。
また、『一生忘れない怖い話の語り方』『恐怖実話 怪の残滓』『オカルト探偵ヨシダの実話怪談』『一行怪談』『禁足地巡礼』などの著書を持ち、ポッドキャスト『とうもろこしの会 presents 僕は怖くない』を配信中です。
苦難の始まり
現在、日本を代表する怪談師の一人として名を馳せる吉田さんですが、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
就職活動では64社に落ち、当時は絶望のどん底にいました。彼はこの経験を
「社会から無視(64)される」という語呂合わせで、いまだに覚えています。
と語っています。
(出典:prtimes)
唯一採用された出版社でも、「将来的に正社員になれる」という約束があったにも関わらず、「即戦力にならない」という理由で試用期間中に解雇されました。
吉田さんは憤りを抱えつつも、その出版社の指示に従わざるを得ませんでした。彼は「その出版社には、いまだに遺恨を抱いています」と語っています。
「毎日、絶望する日々が続きました。このときがまさに人生のどん底でした」と振り返る吉田さん。
そんな中、2歳年上の友人の今仁英輔(いまに ゆうすけ)さんに誘われて参加した稲川淳二さんの怪談ライブが、彼にとっての大きな転機となりました。
ライブを終えた吉田さんは、「実話怪談は自分の一生のテーマになる」と直感し、その世界に引き込まれていきました。
怪談サークル「とうもろこしの会」の立ち上げ
2005年、怪談作家の吉田悠軌さんは友人の今仁英輔さんと共に、怪談サークル『とうもろこしの会』を立ち上げ、怪談活動を開始しました。
立ち上げの動機について吉田さんは、「ただ怖い話だけを語り合う飲み会をやりたくて始めた」と述べています。
「とうもろこしの会」
左:吉田悠軌
右:今仁英輔(出典:怪談師 今仁X)
当時、吉田さんは婦人画報社でアルバイトをしており、都内を移動する機会が多かったことから、都内の坂や暗渠(暗い水路)、さらには神社や祠といった曰くつきの場所に詳しくなりました。
この知識を元に、自らのネットラジオでも怪談話を発信し、怪談の魅力を広め始めたのです。
名前の由来:「とうもろこしの会」の意味とは?
「とうもろこしの会」というユニークな名前には、参加者が気軽に集まり楽しめるようにという吉田悠軌さんの意図が込められています。
「恐怖を感じさせない名前が良いと思い、『とうもろこしの会』にしました」
と吉田さん。会の活動初期は居酒屋で開催していたものの、徐々に公民館などでもイベントを行うようになりました。
「とうもろこしの会」活動内容
「とうもろこしの会」は、怪談やオカルトに関するイベントやポッドキャスト「とうもろこしの会presents僕は怖くない」を通じて、怪談文化を広めています。
(出典:とうもろこしの会・吉田悠軌のオカルトラジオ)
動内容は怪談の収集や発表、オカルトスポットの探訪など多岐にわたり、怪談文化のファン層を着実に増やしています。
「とうもろこしの会」今仁英輔とは?
今仁英輔(いまに ゆうすけ)
「とうもろこしの会」の副会長を務める今仁英輔さんは、PRコンサルタントとしての仕事と並行して怪談活動を行っています。今仁さんはバンド活動も経験し、現在は怪談師「今伊英介」としてテレビ番組やオンライン商店街の運営も手がけるなど、多方面で活躍中です。
こちらが「とうもろこしの会」の副会長を務める今仁英輔さんよ
(出典:怪談師 今仁X)
「とうもろこしの会」不仲説?
「とうもろこしの会」は、会長の吉田悠軌さんと副会長の今仁英輔さんで構成されています。ネット上では、この二人の不仲が噂されていますが、果たして本当なのでしょうか。
「とうもろこしの会」が立ち上げられた当初、吉田さんはYouTube動画で画面に登場し、副会長の今仁さんが撮影を担当していました。その時期、二人の関係は良好だったようです。しかし、しばらくして喧嘩別れをしたとのことです。
YouTube「オカルトエンタメ大学」の企画で制作された「吉田悠軌ポジティブ?Tシャツ」。2024年7月1日の発売を前に、今仁英輔さんに届けに行く吉田さん(出典:YouTube)
最近のYouTube動画では、吉田さんと今仁さんが一緒に出演している姿も見られます。一時的に気まずい時期があったとしても、現在は良好な関係を築いている印象を受けます。
例えば、ある動画では、吉田さんが今仁さんの自宅を訪れ、彼に「吉田POSITIVE Tシャツ」をプレゼントしました。
「吉田POSITIVE Tシャツ」に着替えた今仁英輔さん(出典:YouTube)
今仁さんはその場でTシャツに着替えましたが、その時、右ひじをケガしていることに気づいた吉田さんは「肘どうしたの?」と心配して尋ねました。このエピソードから、吉田さんの今仁さんへの変わらぬ思いを垣間見ることができます。
Tシャツの発売の前に「どうしても届けたい人がいる」と今仁さんの自宅を訪ねるなんて!
喧嘩した時期もあったかもしれないけど、月日が経った今でも「とうもろこしの会」を一緒に作った大切な友達なのね!
吉田悠軌の怪談活動の転機
『クレイジージャーニー』で知名度アップ
最初の8年間は怪談活動による収益はほとんどなく、吉田悠軌さんはバイトを続けながらイベントを主催していました。
2008年(「とうもろこしの会」立ち上げ3年後)の頃の若き日の吉田悠軌さん(28歳頃)(出典:YouTube)
しかし、SNSやメールで怪談のネタを集めるなど活動を続ける中で、吉田さんの知識がテレビ業界の目に留まり、TBSの人気番組『クレイジージャーニー』から出演依頼が来ます。
「クレイジージャーニー」出演をきっかけに、吉田悠軌さんの知名度は急上昇し、カルチャースクールの講師やテレビ番組の出演依頼が相次ぐようになりました。
8年間も怪談活動しても成果がでなかったというのはつらかったね
そうね、8年間ずっと諦めずに続けてきたことを尊敬するわ
好きなことを諦めずに続けてきたからクレイジージャーニーからオファーの声がかかったんだね!
フリーランス転向と収入の増加
2015年頃にはアルバイトを辞め、フリーランスの怪談作家として活動に集中できるようになった吉田悠軌さん。
リーランス転向後は怪談の執筆やテレビ出演に本格的に取り組み、最初は200万円程度だった年収も年々増加しているそうです。
怪談ブームを作り上げた背景とは?
吉田悠軌さんは、日本の怪談シーンを約15年スパンで3つの時代に分類しています(出典:ロガールhttps://tvablog.tv-asahi.co.jp/reading/logirl/81/)。それぞれの時代が独自の進化を遂げ、怪談の表現や共有方法が変わってきました。
(出典:吉田悠軌Instagram)
第1期(昭和~平成初期)は、有名な作家たちが怪談を創作し、文学として人々に受け入れられた時代です。この時期の怪談は一部の限られた作家によって提供され、特定のファン層に支えられていました。
第2期(平成後期)は、一般の人々も怪談を語り始めた時代です。個人の体験談が注目され、プロだけでなく一般人の語る怪談も価値が見いだされるようになりました。この流れによって怪談がより身近な存在となり、エピソードの多様化が進みました。
第3期(令和初期~現在)は、インターネットとSNSの普及により怪談が瞬く間に拡散される時代です。怪談の配信者やSNSユーザーが増加し、怪談ブームが定着しました。現在では「今、怪談が流行っている」と他業界からも認識されるほどです。
時代をこんなふうに分類できるなんて!まさに怪談研究家だね
吉田悠軌さんはきっと、いつも怪談のことをずっと毎日考えているのね
コロナ禍がもたらした変化
吉田悠軌さんは、怪談ブームの背景について「コロナ禍に伴う巣ごもり需要が怪談ブームを加速させた」と述べています。彼は続けてこう語ります。
「コロナ禍以降、現地取材が難しくなりましたが、通話で話を聞く機会は増えました。
多くの人が家で暇をしているため、インタビューも受けてもらいやすく、まさに怪我の功名です。この取材方法は、コロナ収束後も活用できると思います。」(出典:東洋経済オンライン)
(出典:chuokoron)
怪談は、お笑いや音楽とは異なり、スマートフォン一つで簡単に収録できるため、配信サービスとの相性が非常に良いと吉田さんは分析しています。この手軽さが、怪談師の数を急増させる要因となっているようです。
「怪談は怖さの本質を追求するためのものであり、それは未知への憧れと密接に関わっているのかもしれません。」
この言葉が示す通り、吉田さんの怪談への情熱は「ただ怖い話を語る」以上の意味を持っているのです。
SNSを活用した怪談の収集
吉田さんは、現在主にSNSを通じて怪談ネタを募集しています。この手法により、これまで接点がなかった人々から多様なエピソードが集まっています。
「一行怪談」の誕生とルール
SNSを通じて新たに提案されたのが「一行怪談」です。この形式では、わずか一文で物語を描き、恐怖を感じさせる斬新な怪談が生まれました。
吉田さんは、「一行怪談」を作成する際に以下のルールを設けています。
- 題名をつけない
- 句点は一つのみ
- 詩ではなく物語性を持つ
- 怪談に近い内容
- これらを踏まえた一続きの文章
追加取材の重要性
しかし、寄せられた話がそのまま怪談として成立するわけではありません。吉田さんは、エピソードの背景を深く掘り下げるために、日時や場所、当時の服装などの詳細な追加取材を行います。
このプロセスを経ることで、話の「怖さのキモ」が浮き彫りになり、完成度の高い怪談が生まれるのです。
印象的な一行怪談
吉田さんがまとめた「一行怪談」には、以下のような印象的な作品が含まれています。
「これより先は全ての駅が通過となります」との車内放送が流れ、もう二度と山手線から降りられない。」
「今すぐ家から出なさい、と電話の向こうから叫ぶ母の声を聞きながら、すぐ横でテレビに笑う母を見つめている。
「肝試しで入った時にはあれほど怯えていた友人から、次の日、その廃屋に引っ越したというメールが届き、朽ちた畳の上で彼が幸せそうに笑う画像が添付されていた。」
このように、吉田さんはわずか一文で恐怖を喚起する新しい怪談スタイルを確立しました。一行怪談は、短いながらも深い印象を与える力を持っています。
怪談業界への思い
吉田悠軌さんは40歳を前にして、「後進の人たちや、怪談業界全体のためのシステムやフォーマット作りをしなければならない」と強く感じ始めました。彼はこう語ります。
「これは他人のためのように見えますが、実は自分のためでもあります。実話怪談業界が10年後にポシャったら、50代になった私は何をしているのでしょうか?
80歳まで働くと考えると、40年後も続くシステムを作らなければならないと思っています。」(出典:東洋経済オンラインhttps://toyokeizai.net/articles/-/428265?page=6)
このような思いから、吉田さんは『一生忘れない怖い話の語り方 すぐ話せる「実話怪談」入門』を出版しました。
稲川淳二推薦!一生忘れない怖い話の語り方 すぐ話せる「実話怪談」入門(出典:Amazon)
この本は、若手の実話怪談プレイヤーが増えている新しいフェーズにおいて、実話怪談のこれまでの流れをまとめ、これから怪談を始める人にとってのハウツー本となるように書かれています。
まとめ
吉田悠軌さんが会長を務める「とうもろこしの会」は、怪談を愛する人々が集まり、怖い話を楽しむ飲み会として2005年に設立されました。
最初は居酒屋での開催を考えていましたが、公民館などの広い場所でのイベントが増える中、より親しみやすい名前が必要だと感じた吉田さんが選んだ名前が「とうもろこしの会」です。
この名称には、あまりおどろおどろしい雰囲気を持たせたくないという意図が込められています。
吉田さんは、実話怪談活動を始めた当初、ほとんど収入がなく、生活費を稼ぐためにアルバイトを掛け持ちしながら活動を続けていました。
特に初期の8年間はほぼ無収入で、イベントの収益もわずかでしたが、「怪談を語る場」を提供したいという情熱で地道に続けました。
生活のどん底から這い上がる過程で、SNSを活用して怪談ネタを広く募り、独自のスタイルを築きました。転機となったのはテレビ番組『クレイジージャーニー』への出演で、これにより知名度が一気に広がりました。
その後、カルチャースクールの講師としても活躍し、ようやく怪談で生計を立てられるようになったのです。
吉田さんは「失敗続きでうらぶれた人生を歩んでいる人こそ、実話怪談のプレイヤーに向いている」と考えています
そんな吉田悠軌さんが10月28日(月)22:00放送の「クレイジージャーニー」に出演します。台湾の神秘的な儀式、タンキーの魅力を吉田さんが徹底解説し、迎王祭の裏側に迫ります!
当日の放送と併せてお楽しみいただけますと幸いです。最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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